共産主義の新しいカタチ 90

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

善悪の彼岸とは何か
インテルメッツォ➁

善悪の彼岸説くニーチェ思想
 サドの思想は、自らの快楽のためなら殺人すら正当化できるもので、ある意味で「究極の自己中心思想」といえます。このサドほどではないにせよ、ニーチェはキリスト教会を「奴隷道徳」だと断じ、可能な限り「自己肯定」の世界観を説くのです。

 例えば、キリスト教が「隣人愛」を説くのに対し、ニーチェは「遠くにある者」にはその「愛」は届かないとして、叙事詩の主人公ツァラトゥストラに「遠人愛」を説かせます。

 しかし、「あらゆる価値の転倒」や「善悪の彼岸」を唱えたニーチェですら、サドのような露骨な「悪の正当化」は主張しませんでした。サドは「悪徳の栄え」をも書いたように、「悪徳=犯罪」こそが社会を変革する、と考えました。

 バルトは、作中で拷問の末に人々が虐殺されるという場面は、現実のサドの姿ではない、とわざわざ「弁護」しています。確かにサドが獄中生活を送った咎は「淫蕩」であって、殺人ではなかったかもしれません。

悪徳こそ社会変革するとのサド思想
 しかしながら今日、現実世界の「快楽殺人」はほぼ、その犯罪者自身の「性的サディズム」との相関関係が指摘されます。法の理念とは「社会正義の実現」にあるはずですが、サドはこれに全く反しているのです。

 つまり、このように見ると、ニーチェにおいても自己肯定が肥大することによって「他者への配慮」は疎んじられることになります。つまり「偽悪趣味」とは言い過ぎかもしれませんが、やはり「自己中心的」といわざるを得ません。

 キリスト教をはじめ、多くの宗教は「利他性」や「奉仕」を強調しています。しかしニーチェやサドはこれらを否定する思想です。

 やはりリンゼイが宗教を基点として民主主義を二つの方向性に持つ思想の系譜を説いたこと(79回参照)がここでも当てはまりそうです。

「思想新聞」2025年11月1日号より

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