文鮮明師の生涯 3

 9月8日に迎える「文鮮明(ムン・ソンミョン)天地人真の父母天宙聖和」13周年を記念して、『グラフ新天地』2003年10月号に掲載された特集記事を、編集部が再編集してお届けします。

宣教と苦難
真理を伝え、迫害と苦難の中でも神を慰める

 1943年、文鮮明師は日本留学から韓国に戻りました。ところが翌年、抗日運動をしたことが発覚し、捕らえられた上に厳しい拷問を受けました。1945年に日本から解放された韓国では日本人への憎しみが高まっていましたが、「怨讐(おんしゅう)を愛せよ」の信念を持っていた文師はその拷問した官憲を許し、帰国させました。

 文師の課題は国際共産主義、家庭崩壊、宗教分裂の問題を神を中心にして解決することでした。韓国のキリスト教界と文師が一体となれば解決する道が開けたのですが、キリスト教界が受け入れることができず失敗してしまいました。

 そのため1946年には、その失敗を取り戻すため、北朝鮮に向かいました。

▲1940年代の平壌市

 共産主義者やキリスト教からの迫害を受け、逮捕され拷問を受け、ついに死の収容所といわれる共産政権下の興南(フンナム)収容所(※)に送られました。絶望に至るような過酷な重労働の中でも文師は、感謝することで神を慰め、人類救済と神の理想実現の信念を貫いたのです。

▲興南収容所での労働の様子

▲差し入れられたはったい粉で餅をつくり、皆で分かち合う文師

 1950年に韓国動乱が勃発し、国連軍によって解放された文師は平壌(ピョンヤン)に戻り、弟子たちを連れて釜山(プサン)に向かいました。

▲平壌で伝道された教会員と共に(1955年頃、ソウルで撮影)


興南収容所
 文師は1948520日、興南特別労務者収容所に移送され、肥料工場での重労働に従事しました。山のような硫酸アンモニウムの肥料を袋に詰めて運び出す仕事です。劣悪な環境のために6カ月を過ぎると喀血(かっけつ)し、1年半か2年でほとんどの人が死んでしまいます。ひとりの囚人が口にご飯を入れたまま死ぬと、他の囚人は先を争ってその口からご飯粒を取り出して食べるのです。このような過酷な環境の中で文師は、食事の半分を、ある期間他の囚人にあげることで、精神的な喜びを糧として生き抜きました。


【関連情報】
 「そうだったのか!人類一家族」でも、文鮮明師の生涯を動画で紹介しています。ぜひご覧ください。ご視聴はコチラから!

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 次回は、「『原理原本』を執筆。統一教会創立。ご聖婚」をお届けします。

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