2025.06.15 17:00
スマホで立ち読み Vol.37
『きょうからできる愛天愛人愛国の生活』12
阿部美樹・著
スマホで立ち読み第37弾、『きょうからできる愛天愛人愛国の生活』を毎週日曜日(予定)にお届けします。
本書は、愛天愛人愛国が生活の中で実践できるようにまとめられた一冊です。
---
第6章 礼拝を捧げる(前)
教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門戸であり、すべての人に相互扶助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となるのです。教会は、霊的生活の源泉であり、日々の生活に力を補給してくれます。(『愛天愛人愛国-真の愛の生活信条』47ページ)
教会とは、神様と私たち人間をつなげる役割を持ち、生活の中で霊的な力を補給してくれる場所なのです。人間が生きるためには、食べ物や水などの肉の糧が必要であると同時に、神様の愛と真理という霊の糧も必要です。その霊の糧を得る所が教会です。言い換えれば、汚れた心を洗濯し神様につながって新しい出発をする所です。
また、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は次のように語られています。
天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場です。(同48ページ)
教会は、家庭が勝利するための基盤であり、天国生活をするための訓練場だということです。病人には治療するための病院が必要であり、子供には学ぶための学校が必要なように、神様のもとから離れてしまった堕落人間にとっては、本然の姿である天国人になるための教会が必要なのです。定期的に病院に通えば、病気を未然に防いだり、治したりできます。学校で熱心に学べば学力も早く身につくように、教会に定期的に熱心に通うことを通じて、天国人に早く生まれ変わっていくことができるのです。
教会での行事、儀式の中で最も重要で基本となるのが「礼拝」です。では、「礼拝」の意義とは何でしょうか。礼拝は、「神をあがめ、神の恩寵(おんちょう)に感謝し、神に仕えて奉仕することを誓い、報告する場」であり、「神霊と真理を通してサタンを分立し、神様と一体となる恩恵の場」です。さらには、「自らを神様の喜ばれる聖なる供え物として捧げる場」でもあります。礼拝は、神様に捧げる重要な内容ですから、臨む姿勢が大切です。
文鮮明先生の礼拝に関するみ言(ことば)を紹介します。
礼拝を捧げる時間は、祭祀(さいし)を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告して贖罪(しょくざい)しなければなりません。(『至誠感天・家和万事成』133ページ)
礼拝を捧げる時間は、神様を中心として祭祀を捧げる時間であって、いい話を聞きに行くという講演会やセミナーとは違います。何かの技術や資格習得のための講座とも違います。神様の代身として説教する牧会者は当然、精誠を尽くして説教を準備しますが、参加する人も、どのような姿勢で臨むかが重要なのです。
神様を中心として自分自身を見つめ直し、反省し、悔い改めて、感謝を捧げ、決意を捧げる時間でなければなりません。神様の前にうそ偽りがあってはいけません。第二の神様である良心を中心として「正午定着」、すなわち影のない人生を歩む決意を捧げる場とならなければなりません。
礼拝を捧げる時間は、怨讐(おんしゅう)と一騎打ちをするより、もっと深刻な場です。考えてみてください。神様を訪ねていって侍る場所に、礼服を着ないで参席できますか。外見上の礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんの姿が、かわいそうな姿だとしても、心からみ言と共に、賛美と共に、感激した心情があふれ出るなら、天は皆さんを通じて役事なさるのです。堕落した人間がエデンの園から追放される時、涙を流して追い出されましたが、皆さんは悲しみの涙を流す代わりに、喜びの涙を流し、笑顔で神様と出会わなければなりません。悲しみの涙も流してみることのできない人が、喜びの涙を流してはいけません。(同133ページ)
(続く)
---
次回は、「礼拝を捧げる(後)」をお届けします。