信仰と「哲学」66
関係性の哲学~平和の中に自由がある

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 自由についてもう少し述べてみます。
 自由は自らに由(よ)る、すなわち能動的であって受動的ではないということが本質です。能動的であることの意味を考えてみましょう。

 ある日、道を歩いていたら財布が落ちていました。拾ってみるとその中には相当のお金が入っていました。手に取った財布。警察に届けるのか、それとも自分のものにしてしまうのかの葛藤が起こったとします。
 そこで考えること、判断すること、そして次の行動に出ること、すなわち自由意志と自由行動には神は干渉されません。

 まず、内的本性に基づくことが能動的であるということを押さえておきましょう。
 神のみ言によって創造された人間には、内的本性として、創造原理に従って生きようとする指向性を持つ万有原力が内在しています。

 それに従えば、財布を落とした人のことに心と思いをはせ、どれほど困っているだろうかという情感が生じてきます。その結果、警察に届けてその人に確実に届くようにしようという欲求が生じ、そのごとく行動するのです。

 この内的本性に従って能動的に判断し行動するという自由意志と自由行動にはいかなる「よどみ」もありません。この平和が「本心の自由」という状態なのです。

 しかしそれを自分のものにして自分のために使ってしまおうという心、思いが頭をもたげることもあります。そして自分のバッグに入れて持ち去ってしまう。ついにはそのお金を自分のために使ってしまうのです。

 これは神のみ言による内的本性ではなく、神から離れた自分を中心とする自由意志と自由行動です。そこには不安と恐怖という「よどみ」が伴い、心は委縮しゆがんで不自由になっていくのです。
 「拾ったお金で可能となる自分の姿」に従うという、受動的欲望に基づく行動だからです。

 人間には自由が与えられています。
 能動的な自由意志と自由行動の場合はそれを「本心の自由」と言います。
 しかし内的本性に基づくものではない、他者からの刺激(恐怖、束縛、自己中心の観念、想念がもたらす情念も含む)によるものは人間を不自由にするのです。

 平和とは、心が主体となり対象の体と一体となった状態を言います。
 人間の心が神のみ言、原理どおりの内的本性の発露としての自由意志を持ち、それに基づく自由行動をとった状態です。これが心と体の平和であり、そこに自由があるのです。
 平和が先で自由は後なのです。

 神を否定するところに自由はなく、個人主義・利己主義に自由はなく、唯物主義に自由はないことを知らねばなりません。