日本人のこころ 32
奈良─景戒『日本霊異記』

(APTF『真の家庭』253号[2019年11月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

天皇は仏教徒だった
 『日本霊異記(りょういき)』は平安時代初期に書かれた最古の説話集で、正式名称は『日本国現報善悪霊異記』、著者は薬師寺の私度僧・景戒(きょうかい)です。私度僧とは国家の許可を得ないで私的に僧になった人のことで、景戒は妻帯もし、俗人の暮らしをしながら、最後に薬師寺の僧になっています。

 上皇陛下ご夫妻は612日、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)にある明治天皇の父・孝明天皇の陵墓を訪れ、譲位を報告されました。真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺には鎌倉時代から江戸時代までの歴代天皇・皇族の陵墓があり、皇室の菩提寺として御寺(みてら)と呼ばれています。

 天皇の即位の礼が神道式になったのは明治天皇からで、鎌倉時代から江戸時代までは仏式の即位灌頂(かんじょう)が行われていました。灌頂とは、頭に水を注ぐことで仏の位を継承する儀式で、つまり、歴史的には天皇の宗教は神道ではなく仏教でした。

 宗教には人々をまとめる力があります。神道が生まれたのもそうした必要性からで、納税の始まりは、秋にとれた稲穂の一部を神社に納め、翌春にそれを授かり、苗を立てたことだとされています。古代の神道は氏族や部族の神を祀るもので、一般的な宗教ではありませんでした。

 それに対して仏教は普遍的な宗教で、さらにインドや中国、朝鮮で国造りの思想として用いられた歴史がありました。ですから、古代国家形成期の日本は、仏教を国造りの思想として導入したとも考えられます。とりわけ大乗仏教の布施という利他の教えは、人々に納税の意識を持たせるのに適していたのです。自分の財産の一部を上納することが、社会全体の維持に役立っているという意識です。仏教が普及した背景には、支配層がそうした意図をもって導入したからという側面もあります。

 日本に伝来した仏教は皇室が受容することで根を下ろしました。それが民衆に広がっていく過程で、即位の礼も仏式で行われるようになったのです。とりわけ平安時代に空海と最澄という二大スーパースターが現れ、真言宗は皇居(明治以降は東寺)で国家安泰・玉体安穏・五穀豊穣・万民豊楽を祈る「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」を、天台宗は延暦寺で、天皇陛下の「御衣」を御形代に、玉体安穏、天下泰平、万民豊楽を祈願する「御修法大法」が行われるようになります。

 仏教は日本人の根底にある神道と融合し、奈良時代から鎌倉時代にかけて形成された本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により神仏習合が進むという、世界でもまれな日本特有の信仰形態が生まれ、幕末まで1000年以上続きました。本地垂迹説とは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるという考えです。そうした仏教の日本土着過程を、各地の説話を通して物語っているのが『日本霊異記』です。

▲日本霊異記(講談社学術文庫)

因果応報の教え
 収録されている説話で一番多いのは、戒律に反することをした人が死後、牛になったりする話です。罪に対する罰が来世まで持ち越されるのはかなり厳しく、それが集団から個人の単位まで下りてきたのは仏教の普及によるものです。民衆に仏教を布教していく過程で、僧たちはそうした説話を積極的に用いたのでしょう。善いことをすれば善い結果に、悪いことをすれば悪い結果になるという仏教の因果の法則は日本人の感性に合っていたので、仏教はごく自然に受け入れられたのです。

 インドで生まれた仏教には輪廻転生の教えがあります。ところが日本には輪廻転生のような死生観はありませんでした。『古事記』では人間を青人草と言い、男女の交わりから国が生まれているように、この世は自然に生まれてきたという考えです。生と死の始まりについて、イザナギが亡くなったイザナミを連れ戻しに黄泉(よみ)の国に行く話があります。最後に、黄泉の国から逃げ出そうとするイザナギがどうにか追っ手を振り切り、黄泉比良坂の入り口を岩で塞ぐと、イザナミは「毎日、1000人を殺す」という呪いの言葉をかけます。それに対してイザナギは「では、毎日1500人の産屋を建てよう」と答えます。これで世界に「生と死」が生まれたというのです。

 もっとも縄文時代の遺跡や遺物にも、太陽の循環や月の満ち欠けなどから生じた、生命の循環、生まれ変わりの思想があったことを示すものがあります。例えば、函館の縄文遺跡で発掘された粘土板には、幼児の足形が残されていました。おそらく、亡くなった幼児の思い出を、また生まれてくることを願って、母親が粘土板に残したのでしょう。

 人は亡くなると近くの山に住まい、子孫たちの暮らしを見守るようになり、何代か後に再び家族の子供として生まれてくるというのが、古代日本人の死生観です。ですから、インド仏教のように、はるか西方にある浄土に行くという考えはなく、子孫たちの近くにいるというものなのです。「草葉の陰から見守る」という言葉もありますね。もっとも、死後、動物などに生まれ変わるという考えはなかったので、その部分は排除しています。

 538年に百済の聖明王から仏像や経典、上表文を献上された欽明天皇が仏教受容の可否を有力豪族にはかると、物部氏と中臣氏が反対し、賛成の蘇我氏との間で崇仏論争が起こったので、天皇は仏教を蘇我氏に預けています。

 『日本書紀』には「神道を尊び、仏法を敬え」という欽明天皇の詔が記されています。天照大神を皇祖とし、天孫降臨神話をもつ天皇はいわゆる祭祀王であり、その下で物部氏は既得権力を持っていました。それに対して蘇我氏は、新しい技術をもつ渡来人や彼らの仏教を受け入れ勢力を広げようとしたのです。