日本人のこころ 30
奈良―聖徳太子(3)『陽炎の飛鳥』上垣外憲一

(APTF『真の家庭』251号[2019年9月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

飛鳥時代は日本の夜明け
 上垣外(かみがいと)憲一・前大妻女子大学比較文化学部教授の『陽炎(かぎろい)の飛鳥』(アートヴィレッジ)は、私が月刊『知識』の編集に携わっていた1990年頃、連載を依頼した最後の仕事です。連載終了から約20年後の2010年に、やっと出版できました。89年に『雨森芳洲─元禄享保の国際人』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞した同世代の上垣外氏(当時は国際日本文化研究センター助教授)に、『知識』で評論家の松本健一氏との対談をお願いしたのが付き合いの始まりでした。

 松本市生まれの上垣外氏は東京大学教養学科ドイツ分科の出身で比較文学者・芳賀徹に学びドイツに留学、その後、ソウル大学に留学して『三国史記』を研究、86年に『天孫降臨の道』(筑摩書房、後に『倭人と韓人─記紀からよむ古代交流史』講談社学術文庫)を出したころから注目していました。

 『陽炎の飛鳥』では、聖徳太子の師に招かれた高句麗僧の慧慈(えじ)が太子のことを物語ります。 飛鳥時代は明治の初めと同じように、多くのお雇い外国人が日本の国づくりにかかわっていました。太子が同時に10人の話を聞き分けたという伝説も、高句麗語や百済語など複数の外国語を理解できたことから生まれたのでしょう。

 柿本人麻呂の歌に「ひむがしの野にかぎろひの立つみえて かへりみすれば月かたぶきぬ」(万葉集)とありますが、陽炎は厳冬の晴れた日に見られる曙光のこと。飛鳥は、まさに日本の夜明けでした。

 蘇我氏系の皇太子に生まれた太子は、推古天皇の摂政となり権威と権力の両方を手にし、日本の国づくりに臨みます。律令制によって国の外枠を、仏教によって国民の心をつくるのが太子のビジョンで、そのため、当時の先進国で仏教が盛んだった隋に遣隋使を派遣し、若い留学生を送って律令と仏教を学ばせます。

 約20年後、帰国した彼らが起点となって大化の改新を起こし、大宝律令の制定、奈良時代になって全国に国分寺、国分尼寺の建立、総本山である東大寺に大仏の造立がなり、古代国家が概成したのです。

 物語は、大和朝廷に招かれた慧慈が、難波津(なにわづ)に到着するところから始まります。大和で仏教に基づく国づくりが進んでいることに期待を寄せ、その中心人物である若き太子に会えるのが慧慈の楽しみでした。慧慈の派遣は、隋の圧力を受け、日本との関係を強めたいという母国の意向を受けてのことです。

 太子を教え始めた慧慈は、仏教の本質を捉えた太子のみずみずしい感性に驚きます。百済からもたらされた仏教は、鎮護国家を目的とする呪術的なものでしたが、そこに息づく平等思想を太子は発見していたのです。小さな島国の中で、和を旨として暮らしてきた日本民族の伝統を呼び覚ましたとも言えます。

 太子が最初に慧慈に訊ねたのは、仏法における「捨身(しゃしん)」とは何かです。念頭にあったのは「皇帝菩薩」と呼ばれた梁の武帝で、慧慈は仏への供養だと答えます。次に太子は、仏への供養と衆生への供養とに差はあるかと聞きます。慧慈は「ない」と答えながら、太子の政治感覚に驚きます。

 仏への供養は自身を「三宝の奴(やっこ)」と呼んだ聖武天皇において頂点に達します。一方、仏教原理主義の危険もはらんでいました。しかし、大仏造立に行基が率いる集団の力を借りたように、信仰に基づく大衆の力なしに国は成り立たないことも自明でした。その意味で、太子の思想は衆生の救いを志向する日本仏教の流れを生んだと言えます。

▲上垣外憲一・著『陽炎の飛鳥』(アートヴィレッジ)

日本で実現した仏教の理想
 聖徳太子が生きた飛鳥時代は日本の少年時代と言えます。飛鳥時代の仏教について仏教学者の中村元は、「極めて難しいことを真面目に勉強していた」と言っています。太子も難しい経典を少年のように真剣に学んだのです。

 法隆寺では主に三論と唯識(ゆいしき)が学ばれていました。三論宗は、インドの龍樹の『中論』と『十二門論』、その弟子・提婆(だいば)の『百論』の三論を経典とする宗派で、「空」を唱えました。般若心経にある「空即是色 色即是空」の色は物事を意味しますが、空は無ではなく物事の本質で、「空とは何か」を考えるのは、今風に言えば「哲学すること」です。

 唯識は、個人のあらゆる存在が8種類の識、つまり五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と意識、そして2層の無意識(末那識〈まなしき〉と阿頼耶識〈あらやしき〉)により成り立つという考えです。今でいう深層心理学に近く、インドの弥勒(マイトレーヤ)が唱え始め、無著(むぢゃく)と世親の兄弟によって大成されました。

 飛鳥時代から奈良時代の仏教は単なる宗教ではなく、人間の知的営みを刺激する学問全体とも言えるものでした。数字のゼロを発見したインドには、インド哲学と呼ばれる膨大な知の蓄積があり、そこで生まれた仏教にもそれらが含まれていました。つまり、日本人は仏教を通して当時の最先端の学問に触れたのです。

 さらに仏教には、インドや中国で国づくりの思想になった歴史がありました。政治家でもある太子は、当然そこに注目したでしょう。インドや中国ではその後、ほかの宗教や廃仏運動により仏教はすたれてしまいますので、釈迦が願った仏教の理想は日本で結実したのではないかと私は思います。