信仰と「哲学」56
関係性の哲学~愛するということ

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 ドイツの社会心理学、精神分析、哲学研究者であるエーリッヒ・フロム(19001980)の代表作の一つに『愛するということ』(紀伊国屋書店、鈴木昌訳)があります。もともとのタイトルは『The Art of Loving(愛する技術)』です。

 「技術」という表現に、すでに私たちが現実生活において愛することがいかに困難であるが表現されています。
 しかし人間の次元で、工夫次第では習得できるかのように感じられるところに、もう一つ深みを感じることができません。

 前書きの後に、スイス、16世紀の医学者、神秘思想家、錬金術師であるパラケルススの愛と知についての言葉が掲載されています。

 「何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できるものは愛し、気づき、見る。……ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。……すべての果実は苺と同時期に実ると思いこんでいる者は葡萄について何一つ知らない」

 愛と知に関わることを文鮮明師は自叙伝(光言社文庫版『平和を愛する世界人として』)中のエピソードとして次のように紹介しています。

 「父と一緒に牛の市場に行って、『お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない』と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に『おまえはそんなことをどうやって知ったのか』と言われたので、私は『お母さんのおなかの中で学んで生まれました』と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。牛を愛せば牛が見えるのです」(53ページ)

 愛と知は本来切り離すことのできない精神作用です。主体と対象が授け受けする精神作用であり、本質的に主体と対象を統一する作用なのです。
 私が他者と一つになるための作用だということができます。私たちが他者を愛するというのは、自己を捨てて他者と一致する(他者を知る)という意味です。

 以前このような姿勢について「客観的になる」という言い方もしました。西田幾多郎は、釈迦牟尼(シャカムニ)やイエスが人々を動かし歴史を動かしたのは、この姿勢において特別であったことを述べていたのです。