「平和の母」が流した七つの涙 2
【第二の涙】最愛の夫、文鮮明先生に流した涙

浅川 勇男

 「平和の母」シリーズ第3弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』が流した七つの涙」をお届けします。

 「私は…世の中のどの妻よりも、大きな愛を夫から受けながら越えてきた」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』128ページ)

 文鮮明先生より愛を受けた韓鶴子夫人は、妻として大きな愛で夫を愛していました。夫妻は「目を見るだけでもお互いを理解できる」(同128ページ)ほど愛し合っていたのです。

 しかし夫婦が引き裂かれる時が来ました。
 1970年代、文鮮明先生夫妻はアメリカの復興に全身全霊を投入されましたが、反対勢力の策謀によって、文先生がダンベリー刑務所に収監されてしまったのです(1984720日)。

 「一九八四年七月二十日は、私の人生の中から永遠に消してしまいたい一日でした」(同170ページ)

▲祈祷される文鮮明先生夫妻

 「愛別離苦」という言葉があります。紙の表裏のように一体となって愛し合いながら離れて別れなければならない苦しみです。

 毎日早朝5時の祈祷の後、夫は刑務所から妻に電話し、あいさつを交わします。
 妻は毎日、夫との面会に行きました。夫は車から見える丘まで来て待っていました。

 ある時、妻が面会室で待っていると、床掃除や食堂の皿洗いを終わらせてとても疲れ切った様子の夫が入ってきました。その姿を見た妻は、心に涙が込み上げてきます。それをこらえて明るい笑顔で語り掛けました。

 「帰る時は涙がこぼれそうで、真っすぐに夫を見つめることができず、ただ手を振ることしかできませんでした」(同175ページ)

 ダンベリーから解放されて以降、文鮮明先生夫妻は世界平和運動に邁進します。
 ゴルバチョフ大統領と会談し、ソ連の共産主義からの解放の道をつくり、金日成主席と会談して南北統一の道を開門しました。

 文鮮明先生は、90歳を過ぎても、体力の限界を超えて世界を回りましたが、風邪をこじらせて一時入院したものの、すぐに退院されました。

 2012812日。
 夫は妻に語り掛けます。

 「きょうは、二人で向かい合って食事をしたいね」(同27ページ)

 しかし夫はスプーンを手に取らずに、じっと妻の顔を見つめていました。

 「おそらく、心の中に妻の顔を刻んでいたのでしょう」(同28ページ)

 翌日、清平の施設を巡回された文鮮明先生は、この世で最期の時を迎えることになっていきます。

 最後の祈祷をした後、「少しの間、苦しそうに呼吸をした文総裁は、私の手をぎゅっと握りました。『ありがとう! 頼んだよ!』息苦しそうにしながらも、『本当にすまない。本当にありがとう』と立て続けに話す文総裁。私はその手をさらに固く握りしめ、慰労の言葉と眼差しで、安心してもらえるよう努めました。『何も心配しないでください』。二〇一二年九月三日、文鮮明総裁は数えで九十三歳を一期として、神様の懐に抱かれました」(同2829ページ)

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