「平和の母」が流した七つの涙 1
【第一の涙】子女のために流した涙

浅川 勇男

 「平和の母」シリーズ第3弾。自叙伝書写の第一人者、浅川勇男氏による「『平和の母』が流した七つの涙」をお届けします。

 「孝情(ヒョヂョン)を考えるとき、私はいつも、胸の奥深くに宿っている長男の孝進(ヒョヂン)と次男の興進(フンヂン)のことを思います」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』303ページ)

 1980年代、共産主義勢力は全世界を脅かしていました。
 危険を顧みずに共産主義勢力に立ち向かう父、文鮮明先生に、次男の文興進様は叫びました。

 「父さんは僕が守ります」(同 303ページ)

 興進様17歳の頃。
 1983年12月、韓国・光州で勝共大会が行われました。暗殺者が会場に入ろうとしましたが、あまりにも人が多くて実行できませんでした。
 背後のサタンは、ニューヨークにいた興進様に襲い掛かりました。自動車を運転していた興進様の前面に大型トレーラーが横滑りしてきたのです。

 「彼は助手席に座っていた後輩を助けるために、あえてハンドルを右に切り、天の国に昇っていったのです」(同 304ページ)

 「興進は、『父さんは僕が守ります』と言った約束のとおり、犠牲の供えものとなったのです」(同 304ページ)

 「『最後、父母に最も大きな孝行をして逝ったのだ』と私は思いました」(同 305ページ)

 母にとって、愛する子女に先立たれるほど悲痛な事はありません。

 文鮮明先生は語られています。
 「大抵のことには動じない妻でしたが、二番目の息子、興進の死に直面した時は、大変な悲しみを乗り越えなければなりませんでした」(光言社文庫版 文鮮明先生自叙伝『平和を愛する世界人として』226ページ)

 「育てた子供を先に送り出す妻の悲しみは筆舌に尽くしがたいものでしたが、…妻は、興進を乗せた霊柩車(れいきゅうしゃ)を何度も撫(な)でていました」(同 226~227ページ)

▲文孝進様と文興進様

 長男の文孝進様は幼い頃から父母を慕い、「孝子という言葉は、僕のものだ!」(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』305ページ)と言うのが口癖でした。母親を慰めるために、大声で宣言しました。

 「母さん! 僕が大きくなったら、母さんに何でもしてあげるよ!」(同 305ページ)

 音楽によって父母を支えようとした孝進様は、3年間で1万曲を作曲しました。自分の体のことを顧みず、日夜、創作に没頭しました。

 「それが父母を喜ばせることのできる孝情の精神であり、世の中のために自分が果たすべき使命だと感じたのです」(同 306ページ)

▲真のお母様と孝進様

 公演や連日の創作活動による過労で、2008年、孝進様は天に召されました。
 「孝進の火花を散らすような熱い音楽は、父と母のための孝情の表れでした」(同 307ページ)

 韓鶴子夫人は、母として、深く孝進様を愛されました。幼かった孝進様を残して海外に行ったとき、必ず真心を込めて手紙を書かれたのです。

 「孝進へ
 会いたいわ。いつでも呼んで、走っていって抱き締めてあげたい、良い子でかわいい、愛する息子。……
 私たちの孝子、孝進! 天の孝子であり、地の孝子、全宇宙の孝子、孝子の手本になる優しくて賢い孝子の孝進、愛しています」(同 149ページ)

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