コラム・週刊Blessed Life 130
資本主義の未来について思うこと

新海 一朗(コラムニスト)

 共産主義の政治的機構、経済的システム、思想的内容は、全て歴史の審判を受けており、そこに人類が希望を託することはできないのは、明々白々たる事実です。ソ連崩壊以降、そのことは、ますます明らかです。中国、北朝鮮などの運命は長くないことでしょう。

 一方、欧米の資本主義社会は共産主義に比べれば、まだその寿命を保っており、人々は資本主義社会を信じて生きています。資本主義の優位性が、共産主義の誤謬(ごびゅう)と欺瞞(ぎまん)に打ち負かされることはありませんでした。

 さて、資本主義の未来はどうなるのでしょうか。
 マックス・ウェーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(『プロ倫』の略称で知られている)を世に表したのが、1904年のことでした。
 資本主義はどういう精神のメカニズムによって芽生え、発展してきたかを、プロテスタントの倫理から解明したわけですが、ベンジャミン・フランクリンの生き方に示された「勤勉(Industry)、倹約(Frugality)、正直(Honesty)」などの精神が資本の蓄積を生み出し、資本主義社会の発展に寄与したことを、マックス・ウェーバーは詳細に『プロ倫』の中で、述べました。

▲マックス・ウェーバー(ウィキペディアより)

 1859年、マルクスが『経済学批判』において、経済の土台が政治、法律、思想などの上部構造を規定するという、いわゆる、「土台と上部構造」の理論に立脚した唯物史観を提示したわけですが、その45年後の1904年に、マックス・ウェーバーは、上部構造(精神的、倫理的要素)こそが土台(経済)に影響を与え、上部構造に照応した経済システムを発展させるのであると説き、マルクスとは真逆の考えを公表したのです。
 その後の歴史を見れば、マルクスを批判したマックス・ウェーバーの方に軍配が上がったと言えます。

 しかし、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み進み、最後の部分に至ると、突然、それまで諄々(じゅんじゅん/相手に分かるようによく言い聞かせるさま)と論理的かつ理性的な文章で書いてきた筆致を中断し、マックス・ウェーバーに一つのひらめきが舞い降りて書かせたかのような予言的な文章がつづられています。

 「この資本主義の驚異的な発展の中で、将来、人々は檻の中で暮らすようになるかもしれないということを、誰も知らない。新しい予言者が現れ、古くからある考えや理想の復興を叫ぶようになるだろう。さもなければ、機械化された化石的な姿、途轍もない尊大さで飾り立てられた者たちの姿が現れるだろう。このような社会の姿を見て、ささやかれるのは、『精神のない専門家たちよ。心情のない肉欲主義者ども。かつて味わったことのない低レベルの文明の姿だ。想像もできないほどの無価値な世界に落ちてしまった』」という嘆きの声が聞かれるだろうと言うのです。

 この予言めいた奇妙な文章の意味は、倫理と利潤追求の均衡が取れているうちは、資本主義は神に祝福されたものであったが、利潤追求という目的のみが暴走し、倫理が喪失した資本主義になれば、「精神のない専門家集団」「心情のない肉欲(金銭欲)主義者の群れ」「機械的な化石現象の社会」が世界を覆うだろうと警告したものとして理解することができます。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の完成に自らをささげたマックス・ウェーバーに、神は、「利潤追求」のみに走って倫理(他者への思いやりと愛)を忘れるような資本主義には未来なんかありませんよ、と告げたのでした。