コラム・週刊Blessed Life 128
中国共産党の本質

新海 一朗(コラムニスト)

 命を大切にするのは当然のことである、そのように考えることが人権思想の中心として述べられています。生命の尊重は、基本的人権の中心思想になっているわけです。

 日本国憲法第十三条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。

 この日本国憲法によって、生命の尊重が謳(うた)われていることは、一目瞭然です。「生命、自由及び幸福追求」に対する国民の権利は、「最大の尊重を必要とする」と言っているのですから、生命の尊重を基本的人権と見なす法思想は揺るぎません。

 日本の憲法第十三条は、米国の人権思想に由来するものです。
 アメリカ独立宣言は、その冒頭において、「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」と述べていますが、まさにこの部分が、日本国憲法に、ほとんど、そのまま反映された形になっています。

 一方、中国の憲法を見ると、「四つの基本原則」として、①社会主義の道 ②人民民主主義独裁 ③中国共産党の指導 ④マルクス・レーニン主義を掲げ、「人権」の文言は、出てくるものの、上記の「四つの基本原則」が非常に強く、他の憲法条文を拘束し、圧殺してしまいます。いわゆる、全体主義の思想に立つ憲法条文であり、権威主義的ないし権力主義的と言える文言となっています。

 以上の、日米の人権思想と中国の人権思想の相違は明らかであり、中国には、一応、「人権」という言葉はあるものの、「四つの基本原則」が容易に「人権」を蹂躙する余地を残していますので、果たして本当の意味で中国に人民の人権というものはあるのかと問わざるを得ません。

 ここに「生命の尊重」という人権を掲げた場合、中国にはそのような人権思想はないと言っても過言ではないでしょう。あまりにも「四つの基本原則」が拘束力を持つので、「人権」が「人権」として現れることが難しいのです。

 なぜ、法輪功のメンバーたちは、生命の危機にさらされて、無慈悲な迫害を受けてきたのか。なぜ、チベットの迫害弾圧は生まれたのか。なぜ、ウイグルの人々の人権は蹂躙(じゅうりん)され、強制収容所が何百万人ものウイグル人で満ち溢れるのか。なぜ、長江洪水の大災害を中国政府は見て見ぬふりをしていられるのか。なぜ、新型コロナウイルスを中国国内にまん延させるのみならず、全世界にばらまいて甚大な被害を与え、平然としていられるのか。

 かくも「生命の尊重」を軽視する中国共産党政権の無慈悲な態度は、基本的に、「人権」とか「生命の尊重」など、大したことではないと見ている証しではないか。
 そのように捉えられても仕方がありません。

 基本的人権の無視、生命の尊重の軽視、これが「四つの基本原則」を掲げる中国の残忍性、野蛮性、前近代性と言わずして、何と言ったらよいでしょうか。
 こういう中国共産党の精神の貧困は、唯物論、無神論から来るものであり、「霊」の存在の否定が、生命の否定に容易に結び付き、大虐殺を可能にしている最大の原因なのです。