信仰と「哲学」52
関係性の哲学~全てを支配する「統一力」

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 文鮮明師は、「事物の真の姿=実在」を知るのは、感じることから始まるを強調されました。これは純粋経験が実在である、との立場です。

 実在について『岩波哲学小辞典』には、次のようにあります。
 実在とは事物の真の姿をいうとしながら、「真の実在を、何らの思考の加わらない、主客未分の純粋な経験、意識の直接与件などが具体的な真の実在であるとの考え」があると紹介していますが、これが、純粋経験が実在であるという立場です。
 しかし実在に関する哲学議論には、他に唯物論の立場からのものもあり、一致した見解はありません。

 事物を主客未分、すなわち統一的表象として捉えるのが純粋経験です。
 「経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄(す)てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えいるから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである」(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫17頁)というわけです。

 この純粋経験を可能にしているのは、人間の意識に事物全体を統一体として捉える能力、すなわち統一力が存在していることを示していると言わなければなりません。統一体としての事物を意識の統一力によって捉えるのです。それが純粋経験であり、共鳴・共感です。

 西田幾多郎は「統一力」という概念を多用しました。
 『善の研究』(岩波文庫)で、「神とはこの宇宙の根本をいうのである」と述べ、さらに「外は日月星辰(じつげつせいしん)の運行より内は人心の機微に至るまで悉(ことごと)く神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢(こんてい)において一々神の霊光を拝することができるのである。
 ニュートンやケプレルが天体運行の整斉(せいせい)を見て敬虔(けいけん)の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力支配を認めねばならぬ」(236頁)と記しています。

 『原理講論』には「存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである」(42頁)と記され、さらに「あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在している」(44頁)とあります。
 存在しているものは「陽性と陰性」「性相と形状」の統一体であるという意味です。そして二性性相の相対的関係の根底に「統一力」が存在するのです。