コラム・週刊Blessed Life 121
NHK連続テレビ小説「エール」に思う

新海 一朗(コラムニスト)

 現在、NHKの朝ドラで放映されている物語は、作曲家の古関裕而(1909~1989)の人生をドラマ化したものです。

 大正、昭和の時代を駆け抜けたその生涯は、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして戦後の時代という激動の20世紀を、歌という鏡の中に写し入れた作曲人生であったと言ってよいでしょう。
 総数、約5000曲に上る作曲エネルギーは、さまざまな曲想の泉が彼の心中に湧き出ていたということです。

 古関裕の曲は非常に幅広く、その音楽は一つの枠にはまらない色鮮やかな万華鏡世界を形作っています。彼の作曲のレパートリーの広さから「作曲のデパート」といわれる理由が分かります。歌謡曲、行進曲、童謡、オペラ曲、応援歌、とにかく多彩の一語に尽きます。そして、どれもが素晴らしい曲なのです。

 夏の全国高等学校野球選手権大会のテーマ曲である「栄光は君に輝く」の颯爽(さっそう)とした曲調、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」は、熱気充満の力が満ち溢れ、「オリンピック・マーチ」は勇壮華麗の調べで、スポーツの祭典と古関裕が深く結び付いていることは常識になっているかもしれません。

 不幸にして、30代を太平洋戦争の中で過ごさなければならなかった古関裕にとって、その時代には、国策的にも戦時歌謡を多く作らざるを得なかった時代ですが、「愛国の花」は国民歌謡となり、銃後の守りに立つ女性たちが口ずさんだ名曲です。

 「暁に祈る」は、「ああ あの顔であの声で 手柄頼むと妻や子が……」と歌う伊藤久男の歌声が高らかに響き渡っていた戦時歌謡であり、「若鷲の歌(予科練の歌)」は、「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨……」と、霧島昇が歌った大ヒット曲でした。

 古関裕の歌はどれも国民に愛され、国民が口ずさむ、いわば、国民歌謡と言ってよいものでした。

 戦争が終わり、平和日本を作る時代に入って、終戦後の昭和20年代の歌は、戦時中とは一味も二味も違う歌が登場します。「イヨマンテ(熊祭り)の夜」を歌い上げる伊藤久男の勇壮なオペラ的な歌唱は、そのまま、秋川雅史の曲となる宿命を背負ったかのようです。

 「高原列車は行く」は、岡本敦郎が「汽車の窓からハンケチ振れば……」と爽やかにテナーで歌い上げ、ラジオから聞こえてくるその歌声に、国民は“新しい日本を作る時が来た”と言わんばかりに、希望の時代を開こうと頑張りました。

 「フランチェスカの鐘」は、二葉あき子が「フランチェスカの鐘の音が チンカラカンと鳴り渡りゃ 胸は切ない涙がこぼれる……」と歌う時、戦後の新しい時代に生きた人々は、男と女の出会い、そして結婚(あるいは失恋)といった新しい時代の光景を目に浮かべていたのです。

 「長崎の鐘」は、藤山一郎が、「こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ……」と歌う鎮魂歌であり、「召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ……」と切々たる歌唱を聴かせてくれます。

 古関裕と35年間コンビを組んだ菊田一夫は、数々の作詞を残し、それにぴったりの作曲を付けたのが古関裕という類まれな息の合ったコンビであったことを付け加えなければならないでしょう。