愛の知恵袋 120
日本パラリンピックの父・中村裕(上)
(APTF『真の家庭』241号[2018年11月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

破天荒な少年時代

 中村裕博士は、1927年(昭和2年)、大分県別府市浜脇で、5人兄弟の次男として生まれた。父・亀市は別府の中村病院の創設者で院長をしていた。子供の教育は厳しすぎるくらいであったが、その鬼オヤジがいくら叱っても、裕にだけは効き目がなかったという。

 機械いじりが好きで、目につくものを片端から分解したり組み立てたりしていたので、病院の器具が無くなったり機械が壊れたりすると、いつも「ユタカ、お前だろう!」と真っ先に疑われていたという。また、挑戦することが大好きで、空中を飛べるかと考えて、こうもり傘に風をはらんで浮きそうなものをあれこれくっつけて屋根から飛んでみたが、墜落して足を折ってしまったという。いたずらが過ぎる破天荒な裕の将来を心配した父親は、中学進学を機に裕を博多の妹夫婦に預けたが、そこでも叔母を驚かせるようなことばかりしていたという。叔父が大分高商の教授に転勤したので、2年生の時大分中学に転校したが、校則を破っては校庭に立たされていたらしい。

1964年東京パラリンピックにて、奥左から2人目が中村裕博士(ウィキペディアより/©1964 オーストラリアパラリンピック委員会)

グッドマン博士との出会い

 終戦後、九州大学医学部に進んで整形外科の道を選んだ。本当は工学部に行きたかったが反対されたので、医学部でも一番機械いじりに近い整形外科を選んだのだという。

 中村博士は、1958年(昭和33年)、31歳で国立別府病院整形外科科長に就任。そこで多くの外科手術に尽力したが、手術は成功しても、一生家族の世話になるか療養施設で暮らすしかなかった重度障がい者の境遇を何とかできないものかと思い悩んだ。

 そんなとき、リハビリテーションの進んでいる欧米の視察に行かないかと勧められ、1960年、厚生省の委託を受けて、6か月間のアメリカ・ヨーロッパ現状視察へ向かった。この時、イギリスのストークマンデビル病院でグッドマン博士と出会い、衝撃を受けたという。当時、日本では脊髄損傷患者の場合、手術後、社会復帰できる人はごくわずかであった。しかし、その病院では、リハビリに車椅子でのバスケットボールなどのスポーツを取り入れて、実社会で生きる気力と体力を鍛え、6カ月で85%の人が社会に復帰し、有給就職していたのである。

 驚いている中村に、グッドマン博士はこう言った。「君は日本人か。これまで日本から何人も私のやり方を学びに来て、『帰ったら、ぜひ実行する』と言ったが、一人としてその言葉を守った者はいない!」

 実は彼ら日本人医師たちも、帰国して実行しようとしたのであるが、関係省庁や病院の既成概念の厚い壁。そして、患者家族の「障がい者を見世物にするつもりか!」というような反対があって、誰もが挫折していたのである。

 欧米と日本の差を思い知らされた気がしたが、この一言が中村の“挑戦魂”に火をつけた。残された数か月の視察期間中、中村は昼夜の別なくグッドマン博士のリハビリ方法を学び、休日も倉庫に入り浸って、この病院の患者2000人のレントゲンを写し取って帰ったのである。

障がい者のリハビリとスポーツ大会

 帰国した中村は、偏見や反発と闘いながら、リハビリへのスポーツ導入を実行していった。この時から終生、中村の片腕となって支えてくれたのが、後輩の畑田和男医師であった。1961年、中村は大分県の厚生部長を口説き落として、日本で初めての「身体障害者体育協会」を設立。10月に第1回体育大会を開催したのである。翌62年、ストークマンデビルで開かれた第11回国際身障者スポーツ大会に、大分県から卓球と水泳の選手を派遣した。

 寄付を集め、銀行からお金を借り、それでも足りないので自分の愛車を売って選手たちの旅費と滞在費をつくった。卓球は2選手とも予選落ちしたが、水泳では吉田選手が3位に入賞した。この初めての選手派遣は海外でも大きく報道され、壮行会は首相官邸で開かれ、帰国後は選手が東宮御所に招かれて皇太子ご夫妻(現上皇上皇后)の卓球のお相手までさせていただいた。これを契機に厚生省もリハビリテーション政策を強化し、専門のPT(理学療法士)、OT(作業療法士)の養成を開始したのである。

 折しも、東京オリンピックが間近に迫っていた。この好機に、中村は身障者競技大会を開催しようと考えたのである。しかし、いくら実現を訴えても、厚生省は引け腰で動こうとはしなかった。そこで中村は再び東京まで行って、朝日新聞厚生文化事業団の寺田事務局長を訪ね、「パラリンピックが開かれなければ、日本は福祉国家とは言えない!」と口角泡を飛ばして訴えた。

 「夕べ夜行列車で来た。話が終わったらまた別府に帰る」という中村。当時、別府から東京までは片道23時間。かたい座席に座り通しであった。そんな中村の熱意と迫力に動かされた寺田氏は協力を約束。そこから政府や関係団体への働き掛けも進んで、遂に、開催が決定した。

 1964年、悲願の“東京パラリンピック”が開催され、中村は日本選手団の団長を務めた。障がい者のスポーツ参加が進んでいた欧米諸国に比べて、日本はにわか仕立ての選手が参加することになり、競技成績は惨憺たる結果に終わった。しかし、何よりも、この日こそ障がい者に対する日本国民の意識が大きく変わった日であることには疑いがない。

(参考文献:「証・太陽の家と共に」太陽の家企業会発行)