信仰と「哲学」49
関係性の哲学~統一原理の位置付け

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 私の「信仰と哲学の道」、正確には「哲学と信仰の道」は、高校時代に突然始まった欲求、生きる意味や価値を知りたい根源的な欲求に突き動かされて始まりました。

 これまで、マルクス、ギリシャ哲学、カント、ヘーゲル、キルケゴール、西田幾太郎、そしてハイデガーやサルトル、仏教哲学などの思想、哲学に触れてきました。

 その遍歴の中で一貫して求めてきたのは「私にとっての真理」(キルケゴール)でした。真理とは単なる理論ではなく、総合的体系的、直感的に心に響いてくるもの、共感と共鳴できる言葉と概念が「私にとっての真理」なのです。

 中でも、ヘーゲルやマルクスには引かれましたが、それは理論的・知的な次元にとどまり「私にとっての真理」には至りませんでした。

 真理を探究する途上で、「統一原理」に出合いました。初めて出合った時は、マルクスに関わっていた頃であり、理論体系の違いから戸惑うばかりで、語られた講義から「私にとっての真理」との感覚は得られませんでした。でも、「統一原理」で生きている人たちの姿に「私にとっての真理」が秘められているとの思いが心に留まり、教会に通いながらの探求の道、信仰の道が始まったのです。

 これまで記してきたように、私の信仰の道は、いつも哲学の立場から信仰体験を見るということから離れられないものでした。善きにつけあしきにつけ、この「癖」は抜けませんでした。真の信仰者としては失格かもしれません。信仰とはもっと直截的なものであるべきなのだろうと思うからです。

 これまで私は、西田幾太郎やキルケゴール、ハイデガー、釈尊の視点から自分自身の信仰体験を説明してきました。しかしこれは単なる説明ではなく、説明を通して「統一原理」の価値とこの信仰、文鮮明師の言行に対する確信を深めることに直結してきたことを述べたかったのです。

 哲学には四つの種類があったと西田は述べています。
 理論的なもの、倫理的なもの、宗教的なもの、認識論的なものです。倫理的なものと宗教的なものは実践的なものといえるので、哲学の定義は理論的、実践的、認識論的の三つになり、この三つを念頭において定義すれば、「哲学とは知識の最高の統一である」(西田)となります。

 これらの哲学的立場を踏まえれば、「統一原理」という表現には哲学的要素が含まれていると同時に、それを超えた宗教、救いの教義であることが含まれています。そしてその全てを貫く核心的要素が「四位基台」となっているのです。