真理とは、「実体み言」である天地人真の父母様
第5回 神はご自身の中に陽性・陰性を持っておられる

教理研究院

 今回は「〝真理〟とは何か」について真のお父様のみ言から考察してみます。独り子(文鮮明総裁)が語られるみ言と、独り娘(韓鶴子総裁)が語られるみ言は、いずれも神から出てきているみ言であり、矛盾はありません。しかしながら、〝矛盾しているのではないか〟と考える人もいることから、以下、この問題について論じてみることにします。
 なお、これらの内容を総合的に理解し把握するためには、「真の父母様宣布文サイト」の掲載文や映像をごらんください。
 注:真の父母様のみ言や『原理講論』『統一思想要綱』からの引用は「青い字」で表記しています。

※『世界家庭』(天一国7年天暦12月)2020年2月号より転載

三、神は、「天の父母様」である

(1)神はご自身の中に陽性・陰性を持っておられる
 さて、『原理講論』は、神について次のように論じています。
 「存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。……我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである」(46~47ページ)

 神は唯一であられながら、陽性・陰性(男性・女性)の相対的関係をもって存在しておられます。それゆえ『原理講論』は、神について「父母なる神」(61ページ)、「人間の父母としていまし給う神」(92ページ)、「天の父母なる神」(235ページ)、「神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造された」(429ページ)、「神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼らを救おうとして、罪悪世界をさまよわれた」(591ページ)等々と述べています。これらを見れば、神はキリスト教で呼んできた〝天のお父様〟ではなく、〝天の父母様〟と呼ぶのがふさわしいと言えるのです。
 真のお父様は、『平和神經』に収録された「霊界報告書」の表題に「神様は人類の父母」と明記しておられ、「天基元年」を宣布された2010年の「真の神の日」の祈祷において、神に対し「天の父母様」と呼びかけて祈っておられます。
 このことは、従来のキリスト教の神観に対し、新たな視点を与えています。キリスト教では、父(神)と子(キリスト)と聖霊というとき、三者の全てが男性です。すなわちキリスト教では、聖霊も男性と考えています。もしそうであるなら、神は全ての存在の〝第一原因〟であるにもかかわらず、いったい女性の〝性〟はどこから来たのか? という疑問が生じてこざるをえません。
 実は、ヘブライ語で聖霊(ルァハ)というとき、その言葉は女性形でした。
 「使徒言行録(使徒行伝)二章の聖霊降臨の記述は……この出来事(聖霊降臨)を旧約の預言者の言葉の成就と解釈した。それによると……預言者ヨエル(の言葉)を引用しながら、明らかに旧約の世界に帰っている。……ルカは使徒言行録(使徒行伝)をギリシャ語で叙述しているので、プネウマという言葉を使用しているが、預言者ヨエルのヘブライ語原典ではルァハである。……ルァハが旧約では女性形だということははっきりしている」(E・モルトマン=ヴェンデル編『聖霊は女性ではないのか』新教出版社23~25ページ)

 旧約聖書におけるヘブライ語のルァハは女性形でしたが、新約聖書のギリシャ語に翻訳されるとき、それが中性名詞のプネウマ(風)に置き換えられました。さらに、四つの福音書の中で最後に編纂されたヨハネによる福音書では、聖霊を指す「助け主」(一四章16節)が、ギリシャ語でホ・パラクレイトスで、男性冠詞を付して呼ばれるようになりました。
 しかし、創世記には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(一章27節)とあります。この創世記の記述は、『原理講論』の「神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称する」と説く統一原理に通じるものがあります。
 実は、ユダヤ教の教えには「独身の拒否」があります。ユダヤ教では次のように考えています。
 「性は神が望んだ人間のあり方の不可避的な一側面だということである。それ故独身の人間は不完全とみなされる、彼らは人間の最高の身分に達していない。……聖書に定められた祭司には結婚をし子孫を得る義務がある。……トーラーの研究のため独身のままでいるかもしれないがその場合、神は『男性的』であるという思想はいずれにせよ全く通用しなかった。特に神秘家にとって神性は同時にまた『女性的』でもある。聖書には神の母性愛について語っている(イザヤ書四九・15)。援助、哀れみというヘブライ語の「rachamim」、すなわち最もよく述べられる神のひとつの特性は、rechem(母胎)に由来する」(『諸宗教の倫理学・性の倫理』九州大学出版会10ページ)

 このように、神の中に父性(男性)と母性(女性)とが内包されていると述べられています。すなわち、ユダヤ教でも神は男性ですが、その中に〝父性〟と〝母性〟を持つ存在であると捉えています。したがって、神が顕現されるときには〝父性〟の姿だけでなく、〝母性〟の姿をもっても顕現されうるのです。ユダヤ教のラビは次のように述べています。
 「さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、『このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい…』(出エジプト記一九・3~)
 ここでは神はモーセに対して、最初ヤコブの家にこれを告げ、それからイスラエルの子供たちにこれを告げよといっている(日本語訳では『人々』となっているが、これは『子供』の誤訳)。この場合、ヤコブの家と子供たちというのは、結局同じことである。モーセに対して神が十戒の構想をユダヤ人に告げよといったとき、最初は非常に甘いやわらかい調子でいい、二番目は非常に強い言葉でいった。ラビは、これから大きな教訓を得た。すなわち、十戒の基本的な構想は、最初に女性に与えられ、つぎに男性に与えられた。なぜなら、女性は最初の教育者である。すなわち子供を教えるのは女性である。……ヤコブの家というのは、ヘブライ語では非常にやわらかい、女性的な感じで発音される」(ラビ・M・トケイヤー著『ユダヤ発想の驚異』129ページ)

 このように、神は威厳を持つ父性(男性)の姿で顕現されるときがあれば、一方では柔らかい母性(女性)の姿をもっても顕現されます。すなわち、神が現れるとき、男性的であり、かつ女性的でもあるのです。