信仰と「哲学」43
関係性の哲学~死への「不安」は良心の声

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 死を前にしての不安こそが、人間が非本来的生き方から本来的な生き方に転換できる契機となるとハイデガーはいいます。そしてその不安こそが「良心」の呼び掛けであるというのです。とても重要な内容を含んでいます。

 ところで、文鮮明師は「死」について、次のように語っておられます。

 「皆さんは、どれくらい生きそうですか。全員『70年、80年は生きるだろう』と、このように考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、80歳に死ぬとか、100歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、『ああ、私は若いので、今後少なくとも40年、50年は生きる』と、そんな欲をみなもっているでしょう。それが神様に保障されましたか。
 皆さんは、できるだけ1年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にみな準備すべきです。このような観念をもって生きなければなりません。できるだけ短く定めるほど、幸福です。短く定めるほど、損害をしないのです。その期間に真(まこと)になるように、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです」(「『天聖経』地上生活と霊界 第1章 有形・無形世界における人間の存在〈祝福と永生〉」より)

 文先生は死の観念を持って生きることを強調しています。
 そしてそれが真になること、永遠の生命の家を建てることにつながっていくというのです。死から逃れようとするのではなく、死の観念を持つこととが必要なのです。

 実は、死と「良心」の関係について文先生から直接お聞きしたことがありました。
 それは1990年代の半ば、アラスカでの出来事です。アラスカの公館で、文先生のお話を伺う機会がありました。
 そこで「誰か質問があるものはいるか」と言われたのです。その時私は、対社会的活動の中で多くの攻撃を受け、くじけそうになり、時には逃げ出したくなるような気持になっていたのです。

 手を挙げて質問しました。
 「先生のこれまでの歩みは闘いの連続であったことを知っています。先生はなぜ、闘い続けることができたのでしょうか。どのようにしたら闘い続ける力を持つことができるのでしょうか」と。

 「間髪を入れず」とは、このことであると思います。
 文先生は「すでに死んでしまったものと思いなさい」と言われました。それから人間の良心について語り続けられたのです。

 良心の力がいかに強いものであるのか、素晴らしいものであるのかを語り続けられたのです。良心の力は死への不安を克服できるものであることを説明されたのです。それが闘い続けることができる原動力となったことを言おうとされたのです。

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