「ベルリンの壁」崩壊から30年。
今、われわれに問われていること(前編)

(第5回 ここがポイント! ビューポイント〈プレゼンター:木下義昭〉より)

 東西分断の象徴だったベルリンの壁崩壊から30年がたちました。
 1989年11月9日、ついに頑丈なベルリンの壁が崩壊しましたが、世界のビッグニュースになりましたね。

 昨年(2018年)11月9日、30周年記念にあたりドイツのシュタインマイヤー大統領は、「米国第一」を掲げるトランプ米大統領を念頭において、互いに「尊重し合える同盟国」となるようアメリカに呼び掛けました。

 トランプ氏はワシントンから以下の祝辞を送っています。
 「全世界から見える希望と機会の光として燃え続ける自由の炎を守るため、米国は最も貴重な同盟国の一つであるドイツと連携し続ける」

 私は1984年から85年の間、西ドイツ特派員・ヨーロッパ総局長として西ドイツの首都ボンに駐在していました。

 ボンは皆さまもご存じのように、作曲家・ベートーベンが生まれた土地です。風光明媚(ふうこうめいび)な素敵な都市です。

 ここから何度もベルリンの壁を取材しました。また、ここを通過して東ヨーロッパ諸国の東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランドなどを取材し、現地の実情を多くの記事にしました。

 当時の東ヨーロッパは社会主義体制の独裁体制であり、軍事主体で経済は疲弊していました。どの町を見ても、有識者と話しても非常に暗さが漂う灰色の世界でした。

 いつかはこの壁は撤去されなければならないと思い、そのためには何をしなければならないのか、その条件や課題を常に考えながら取材をしていました。

 その頃(1986年)に書いたのが以下の記事です。

①「宗教弾圧 裏目に」(チェコスロバキア)

②「西側に飢える若者」(ハンガリー)

 これが、ベルリンの壁崩壊の約3年9カ月前の記事です。

 ベルリンの壁崩壊の時は、私の予想よりも少し早く訪れました。2000年前には崩壊すると思いましたが、かなり速いスピードで自由化が達成されました。

 ここが第1のポイントです。

 厳密にいえば、ベルリンの壁は「崩壊した」というよりも「壊した」という方が正確でしょう。

 ドイツのシュタインマイヤー大統領は米国がベルリンの壁崩壊に向けて重要な役割を果たしたとし、当時を次のように振り返っています。

 「1987年6月1日、レーガン米国大統領がブランデンブルク門でベルリンの壁の前に立ち、『この壁を壊しなさい!』と言ったのが今でも耳に残っている」

 実はレーガン大統領はかなり激しい口調で、「ゴルバチョフ書記長、この門に来て、この壁を崩壊せよ!」と檄(げき)を飛ばしたのです。
 この伝説的な演説は、神経質な米国務省の官僚らによってスピーチ原稿から何度も削除されたのですが、レーガン大統領は元に戻し続けてこの発言をしました。

 この強烈な演説の約2年後、壁は崩壊、破壊されたのです。

 以前もお話しましたが、「役者・俳優でなければ大統領は務まらない」というのがレーガンの名言です。
 明確な政治哲学、戦略戦術のもとでの演説・発言は人々の魂を揺り動かし覚醒させ、世界を動かしているのです。

 ただしこの場合、演説・発言だけで動くのではありません。
 レーガン大統領は強い米国復活のための政策を進め、ソ連など社会主義体制への包囲網をつくりました。

① 防衛予算の増額

② ヨーロッパに中距離ミサイル配備

③ SDI(戦略防衛構想)を強力に推進

④ ソ連食料政策のアメリカ依存度を高める

 など、あらゆる手を尽したのです。きちんと裏付けをした演説・発言だったのです。

(後編に続く)

(U-ONE TV『ここがポイント!ビューポイント』第5回「『ベルリンの壁』崩壊から30年。今、われわれに問われていること」より)

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