信仰と「哲学」38
本体論入門~特別編③ 清平体験「私はここにいる」

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 その体験は111日の夜に起こりました。役事の時間、それも「通声祈祷」といわれる時間でした。「天の父母様(神様)」を大きな声で呼んで祈るのです。韓国のキリスト教会で行われる独特の祈りの仕方であるとの説明も受けました。

 その日は、清平での修練会、17日目に入っており、聖歌を賛美しながら拍手をしたり、頭や首、胸などを丁寧に、真剣にかつ適度な強さで叩いていく一連の役事のやり方にも慣れてきていました。ある意味では無意識的に行える段階に入っていたといえるでしょう。

 そして自分の拍手が数百、数千人の拍手と一つになり、一つの拍手という状態になる時、自分という意識が全体の中に溶けていくような感覚になっていきました。

 一滴の水も、それが継続して一点に集中して滴り落ちれば、岩をもうがちます。この継続が「精誠」といわれるのです。これも韓国においてよく使われる言葉ですが、その意味が役事を通じて、実感として伝わってきました。

 一人一人が一滴の水であっても、集まれば大河となり、あらゆる障壁を越えて、ついには大海に流れ込むことができるのです。一つになること(統一体となること)がいかに偉大なことであるか、自分を無にすることがいかに大切なことであるかを、拍手をしながら心で実感していくのです。

 その時の自分は、すでに自分という意識、自覚はなく、全ての言動が自然に流れるようになっていたのです。
 通声祈祷が始まってすぐでした。
 心の奥底が振動するような感覚とともに、自分の口から「私は生きている。私はここにいる。私はあなたと共にある」との言葉が幾度も繰り返され、それも涙とともにその言葉が溢れ出てきたのです。

 「何だろう、これは」との思いとともに繰り返される言葉が体全体の細胞に染み入っていくような感じでした。そしてこれが、本体としての天の父母様との共鳴・共振による「純粋経験」であると確信しました。

 役事は、心と体が一つになって統一体になる行為です。何日も何日も繰り返す中で熟練度が増し、おのずと統一体が純粋で確かなものになっていくのです。すなわち四位基台がつくられていき、四位基台の「本体」である天の父母様と共鳴・共振が起こるのです。哲学的な理解を土台に信仰とつながる貴重な体験をすることができた清平での修練でした。

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 次回の配信は、1月13日(月)を予定しています。