愛の知恵袋 83
ひたむきな姿が胸を打つ

(APTF『真の家庭』199号[2015年5月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

新しいハチ公像の除幕式

 201538日、東京大学農学部の構内で、「ハチ公と上野英三郎(ひでさぶろう)博士像」という銅像の除幕式が行われました。ハチが死んでからちょうど80年目の命日にあたる日でした。

 秋田犬(あきたいぬ)のハチは1923年(大正12年)1110日に秋田県大館市の斉藤宅で誕生し、翌年1月中旬に東京渋谷に住む上野英三郎・八重夫妻の家に引き取られました。上野氏は東京大学農学部の教授で、すでに2頭の犬を飼っている愛犬家でした。

 幼犬の頃のハチは内臓が弱く、心配した博士は自分のベッドの下に寝かせたりして特別に気遣いながら育てたようです。やがてハチは玄関先や門前まで必ず主人を見送り、時には渋谷駅まで送り迎えをするようになりました。

愛する主人の突然の死

 ハチが上野家に来て14か月後の1925年(大正14年)521日、博士は大学内で突然倒れ、帰らぬ人になりました。この日、迎えに行ったハチは主人に会えず、博士の服を置いた物置にこもって、3日間何も食べなかったそうです。

 上野博士亡き後、八重夫人は諸事情で大型犬を飼うことができなくなり、ハチは2年ほど数か所の家に預けられたのち、上野家と親しかった植木職人の小林家に引き取られました。

 その頃から、渋谷駅前で道行く人々をじっと見つめるハチの姿がよく見られるようになりました。駅に通うときは、その途中に必ず旧上野家に立ち寄って窓から中をのぞいていたそうです。ハチは博士の出勤と帰宅の時間をきちんと覚えており、毎日、朝9時頃に駅に行き、しばらくすると小林家に戻って食事をし、また、午後4時ごろに出かけては、改札口の近くでじっと上野博士の帰りを待ちました。

▲晩年のハチ(ウィキペディアより)

雨の日も風の日も10年間

 しかし、世の人々は博士の死やハチの事情は知りません。駅前の路上に大きな犬がいるので、通行人から気味悪がられることもあります。駅員から追い払われたり、子供達からいじめられたり、屋台の商人から「邪魔だ!」と言って足蹴(あしげ)にされたりしていました。それでも性格のおとなしいハチは、決して吠えたりせず、毎日駅前に来ては主人の姿を追い求めました。

 そんな姿に胸を痛めた犬の研究家の斎藤弘吉氏が、1932年(昭和7年)10月、ハチのことを朝日新聞に寄稿したところ、「いとしや老犬物語…今は世になき主人の帰りを待ちかねる7年間」という見出しで記事が掲載され、多くの人にハチの事情が知られるようになりました。

 それからは、いじめる人はいなくなり、声をかけてくれたり、食べ物をくれたり、優しくなでてくれる人たちが増えました。そして、1934年(昭和9年)には、ハチの姿に感動した多くの人たちの募金で最初のハチ公の銅像ができました。

 しかし、雨の日も風の日も待ち続けたハチですが、ついに博士に会うことはできませんでした。1935年(昭和10年)38日の朝、渋谷の路上で息絶えたハチが発見されました。

ひたむきな心の美しさ

 ハチの死は地元の人たちを通じて多くの人々に知れ渡り、葬儀をしてあげることになりました。葬儀には、上野夫人や小林夫妻をはじめ、多くの著名人と数えきれないほどの市民が集い、心からハチの死を悼みました。

 戦時中には「これぞ忠君の鑑(かがみ)」と戦意高揚のために利用されたりしたこともあったようですが、ハチには人間のような複雑な思惑(おもわく)はいっさいなく、ただ、ただ、慕わしい主人に会いたい一心だったのでしょう。犬は格別に人間の愛情に敏感な動物です。

 愛する人を一途(いちず)に慕う姿、純粋でひたむきなその姿に胸を打たれます。

 私達も、親と子の絆、夫と妻の愛情のあるべき姿を教えられている気がします。

 冒頭に紹介した東大農学部構内の新しい銅像は、東大文学部教授で動物と人間との関係を研究しておられる一ノ瀬正樹氏が発案し、多くの人に呼び掛けて集まった募金によって実現しました。一般人でも自由に見学できる所にあります。

 今まで長い間親しまれてきた渋谷駅のハチ公は、じっと座って主人を待ち続けている姿でした。しかし、今回完成した銅像は違っていました。帰って来た上野博士にハチが喜んで飛びつき、手を取り合っている姿です。

 こんな嬉しそうな姿のハチにして下さった関係者の心配りが実に嬉しいものです。

 主人を待ち続けて90年、やっと会えたんだね。

 良かったね、ハチ!