コラム・週刊Blessed Life 66
令和時代に願われる「心の教育」

新海 一朗(コラムニスト)

 教育の三本柱である知育、徳育、体育のうち、徳育の欠如が昭和、平成を通じた戦後教育の大きな問題点として指摘されてきました。

 アメリカ占領軍の政策は戦後の占領期間の7年間にわたり、修身・道徳の教育を厳しく禁じました。アメリカの占領政策が終わった1952年(昭和27年)427日以降も、日本は道徳教育をきちんと復活させることなく今日に至るという政策の失態を犯し、道徳精神を失った国民をつくり上げてしまったのです。

 そのような中で育った戦後の子供たち(私たち)は、高度成長期の日本の経済活動を支えましたが、経済的な豊かさを享受する一方、心の豊かさを失い、「物で栄えて心で滅ぶ」といわれる倫理喪失の時代が到来します。それが80年代から90年代にかけて顕著となり、21世紀に入っても、道徳倫理を取り戻すことができない状態が続いています。

 歴代内閣が道徳教育を復活させる努力を払わなかったわけではありませんが、共産党、社会党などの左翼革新勢力の反対の声に遮(さえぎ)られて、道徳教育の復活はことごとく阻止されました。

 1958年、岸内閣の時、かろうじて「道徳の時間」というかたちの授業を設けましたが、それは「時間」であり、「道徳の科目」ではありませんでした。きちんとした道徳の教科書がなかったのです。

 「人格」という徳を育てないで、権利のみを主張する人権教育を行い、子供たちは甘やかされ、極端な個人主義がいつの間にか心の中に住み着く事態となったのです。

 行き過ぎた個の尊重が個人主義を助長し、過保護でわがままな子供になるか、自由放任で何をやっても許される不良になるか、誰も子供たちの非行に対して注意しない、そのような「見て見ぬふりをする」、ゆがんだ風潮が学校で、地域で野放しで広がっていきました。

 そこには道徳教育のひとかけらもありませんでした。「してはダメ」という言葉を誰も口にしなくなりました。「悪いこと」と「良いこと」の区別を語る人がいなくなりました。道徳教育の完全な崩壊です。

 家でも子供たちをしつけられない、学校でも道徳を語らない、地域でも子供たちを見守らない。これでは、まるで子供たちが獣(けもの)のように育っていくしかない状態であり、体は育っても、心はおおよそ人間らしい心に育つ機会を全く持たないで利己的な大人になるしかないという結末があるのみです。
 こうして戦後教育は徳育をないがしろにすることにより、思いやりの国民精神を失わせてしまいました。

 令和時代に願われるのは、本当の心の教育です。オレオレ詐欺に罪意識もなく加担するような若者たちが後を絶たない社会は御免です。
 道徳大国になることこそが、真に美しい日本、世界に誇れる日本となる道なのです。