愛の知恵袋 57
二人でつくる黄金の時間

(APTF『真の家庭』167号[2012年9月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

納得のいく夫婦の対話が持てない

 ある地方で、夫婦セミナーを行ったときのことです。このセミナーは、どのようにすればより仲の良い夫婦になることができるかということを学び合うための場です。

 ある講座が終わって休憩の時、一人の婦人が話しかけてきました。

 「先ほどの時間で、先生が『自分たちは夫婦の対話ができているほうだと思う方?』と訊(き)かれたときに、私は手をあげました。たしかに私たち夫婦の場合、会話はしているほうだと思うんです。でも、よく考えてみると、楽しくて話が弾むといった雰囲気にもならないし、本音の話ができている訳でもないし、ほとんどは世間話か子供のことで、本当の意味でお互いの心を知り合い、気持ちが通じあうというような実感は持てません。何かしらいつも心にある種の不満というか、しこりのようなものが溜(た)まっているのを感じます…」という話でした。

奪われていく家族の対話時間

 実は、最近は“家族の対話”が「なくなってしまった」、あるいは「うまくいかない」ということで悩んでいるご夫婦が非常に増えています。

 そうなるには、様々な原因がありますが、環境的な面から言えば、まず、「一日の中で、家族が一緒に過ごす時間が減った」という現代社会の生活様式の変化があります。ひと昔前であれば、街では、自営業の商店や町工場が軒を並べ、夫婦が同じ場所で仕事をし家庭生活をしていました。漁村や農村でも同じように家族が同じ場所で働き、家庭生活もしていました。しかし、現在では、職場と住居は分離され、ほとんどの家庭では、夫の職場と妻や子供の居場所は全く異なり、夫婦、親子が顔を合わせるのは夜の時間か休日だけになっています。

 さらに、それ以上に大きな問題は、家庭で過ごしてはいても、夫婦や親子の対話が非常に減ってしまったことです。テレビ、パソコン、ゲーム機、携帯電話など、様々なメデイアが家庭の中に侵入しており、一人一人がそれに向かい合う時間が増すほど、夫婦や親子の対話時間は奪われています。

家族で話す時間を増やしてみたが…

 このように、家庭で家族がそろって過ごす時間が減ってしまった現在ですが、その少ない時間の中で、夫と妻は言葉を交わし、意思疎通をはかり、愛情と信頼を育んでいかなければならないわけです。

 面談してみると、ほとんどの女性たちは、「夫が話を聞いてくれない」、「子供と話してくれない」、「何を考えているのか分からない」、「楽しい会話ができない」といった不満を持っています。そして、「夫婦の対話時間をもっと増やしたい」という希望を持っています。

 そこで、とにかく、「家族で話す時間を増やそう」と努力しているご家庭も多くなりました。しかし、それだけでは、話の絶対量が増えても、そのほとんどが子供たちを交えた雑談であり、“一家団欒(だんらん)”という点では良いことですが、“夫婦の心の交わり”という所までには至らないというのです。

一日一度、夫婦だけの対話を持とう

 そこで、やはりどうしても、“夫婦の対話”そのものを増やす努力が必要になるわけです。夫も妻も意識して、できるだけ相手に話しかけ、また、話を聞くようにしましょう。

 そうしていくと、コミュニケーションは進んできますが、最後の壁にぶつかります。「夫婦の対話は増えたものの、心が通じ合うまでには至らない」という悩みです。

 ここで問題になるのが、会話の“品質”です。つまり、“内容と深さ”です。

 二人の会話が、日常会話や世間話の範囲で終わっていたり、子供や周囲の人間模様などの話で終わっていたりすることが多いので、心の琴線にまでは届かないのです。

心が通い合う黄金の時間”

 夫婦の対話で、最も品質の高い時間のことを、“クオリティータイム”と呼びます。それは、「二人だけの水入らずの時間」であり、「感情的にならず穏やかに話せる時間」です。

 そんな時間を、夕食の後のくつろいだティータイムとして持つ、あるいは、休日にどこかに出かけた折りに、喫茶のひとときとして持つというのも良いでしょう。一番いいのは、毎日、就寝前のひととき、寝室で穏やかな語らいのときを持つことです。

 この時間を究めていけば、「お互いの本音も話せる時間」となり、「ロマンチックな愛も語り合える時間」にもなっていきます。

 このような時間は、私たちの人格の成熟と夫婦愛の完成には、なくてはならないものであり、人生にとって、何ものにも代え難い“黄金の時間”です。

 楽しかったことや苦しかったこと、嬉しかったことや悲しかったこと、そして将来の夢や希望などについて、素直な気持ちで話すことができるようになれば、お互いの心の傷は癒やされ、相手の良い所を発見でき、やがては愛(いと)おしささえ湧いてくるのです。