2026.08.23 22:00

日本人のこころ 113
源信(2)『往生要集』―ダンテ『神曲』との比較
ジャーナリスト 高嶋 久
ダンテ『神曲』に見るキリスト教の地獄
「地獄の思想」はキリスト教にもあります。14世紀に書かれた『神曲』はイタリアの詩人・ダンテの代表作で、地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る長編叙事詩です。イタリア文学最高の古典とされ、森鷗外や正宗白鳥など明治の知識人も大きな影響を受けています。その内容は…。

復活祭前の金曜日、暗い森の中に迷い込んだダンテは古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国を遍歴します。ダンテは地球の中心部にある、魔王ルチーフェロが幽閉されている領域を経て、煉獄山にたどり着きます。煉獄山を登るにつれて罪が清められたダンテは、山頂でウェルギリウスと別れ、そこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界に昇り、至高天(エンピレオ)に至り、見神の域に達するという物語です。
興味深いのはソクラテスやカエサル、クレオパトラなど歴史上の人物が登場することで、イエス・キリスト以前の人たちはその救いにあずかっていないため、地獄や煉獄で苦しんでいる様子が描かれています。地獄の様相は地球の中心に向かって円錐状の形態をしており、地の底にどんどん沈んでいくようなイメージだったことが分かります。
キリスト教では、人は死後、キリストが再臨するまで眠りにつき、終末の時に復活して「最後の審判」を受けると言われています。そこで生前の行いが審判されて、救われる者は新しい体を与えられ神の国に入り、そうでないものは地獄に行き永遠の炎で焼かれることになるのです。
人は皆、人類始祖のアダムとエバが神の教えに背いたことにより生じた原罪を背負って生まれるので、救い主イエス・キリストを信じて救われなければ、天国には入れません。これがいわゆる「原罪主義」で、悪から始まった人類史は、神の摂理により悪神(サタン)と神との闘争として展開され、イエスが再臨する終末において神の勝利に終わり、原罪をあがなった人たちは天国に入り、そうでない人は地獄に落ち、再び救われることはありません。
キリスト教では地獄に落ちたら二度と出られないのに対して、仏教の地獄には地蔵菩薩によって救われ、極楽に入ることができるという柔軟さがあります。ゆえに「地蔵信仰」は庶民の間に広まり、各地にお地蔵さんがあるのです。
原罪主義と原恩主義
原罪主義を最初に唱えたのはイエスの死後に生まれ、回心して使徒となったパウロとされ、聖書のローマ人への手紙5章12節には「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」と書かれています。
それを神学として体系化したのが4~5世紀に活躍した神学者のアウグスティヌスで、代表作が『神の国』です。若いころは善悪二元論のマニ教を信じ、『告白』で、「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と述べているように放縦な生活をしていましたが、キリスト教に回心することで目覚めたのでした。
動物のオスが子孫を残すために争うように、性欲は悪や罪の発生と深く関係しています。浄土真宗を開いた親鸞はそうした根源的な罪を深く自覚した人で、自分に対する絶望感から、阿弥陀如来に絶対的に帰依する「他力本願」に至ったとされます。それを分かりやすく説いたのが、親鸞の弟子の唯円による『歎異抄』で、大正時代に戯曲として自身の愛と罪を描いた倉田百三の『出家とその弟子』は多くの青年の心をとらえ、ベストセラーになりました。浄土真宗がキリスト教に似ていると言われるのは、そうした罪観の類似性と阿弥陀仏への一仏信仰からで、私も大学一年生の時に同書を読み、友人の影響でキリスト教にも関心を持つようになりました。
それに対して、日本人は「原恩主義」であると唱えたのが社会学者で東大名誉教授だった見田宗介です。自然や祖先など周りのすべてからの恩により私はこの世に生を受け、生きているという思想で、仏教以前の日本人の生き方とも言える神道の死生観・世界観に似ています。最近では万葉学者の上野誠國學院大學教授もそれを唱えています。
日本人の信仰は神道の上に仏教を受容した神仏習合が一般的なので、地獄も本人の努力や家族・子孫らの供養により出られるという相対的な世界になったのでしょう。仏教における善悪はキリスト教のように絶対的なものではなく、善の中にも悪があり、悪の中にも善があるので、できるだけ悪を抑え、善を伸ばそうとする考え方が日本人の善悪観になったのです。
信仰はきわめて個人的なものなので、どちらを信じるかは本人の自覚に委ねられています。加えて信仰を持つのはコーリング(召命)という神仏からの働きかけが大きく、それが偶然の人や出来事との出会いとして人生の転機になることが多いのです。いずれにせよ大切なのは、それらや学びを踏まえ、自分の死生観として深めていくことでしょう。