魚谷さんの宗教講座 16
仏教編⑯
大仏建立と鑑真の戒壇

ナビゲーター:魚谷 俊輔(UPF-Japan事務総長)

 日本に伝来してから奈良時代までの仏教の中心的な役割は「鎮護(ちんご)国家」、すなわち国を守り安定させることにありました。
 僧侶は鎮護国家を第一とする「官僧(かんそう)」であり、彼らは政府に雇われた国家公務員のような存在でした。

 701年の僧尼令(そうにりょう)により、天皇の許可を得ずに勝手に僧尼になってはいけないことになっていました。しかし実際には、勝手に僧侶になる人たちがいて、そのような僧を「私度僧(しどそう)」といって、彼らは違法な存在として弾圧の対象になりました。

 奈良仏教のピークが東大寺の大仏建立と戒壇(かいだん)設立になります。これを推し進めたのが聖武天皇です。
 聖武天皇は737年に国分寺と国分尼寺創設の詔(みことのり)を出し、743年に大仏建立の詔を出します。国家の安泰のために大仏を建てるんだと宣言したわけです。

 しかし実は、当時の財政は逼迫(ひっぱく)しており、政府の予算だけでは大仏を建てることはできませんでした。
 そこで活躍したのが行基(ぎょうき/ぎょうぎ)という人でした。この人は日本地図を書いたことでも有名ですが、実は行基は官僧ではなくて私度僧だったのです。彼は民衆に人気があり、民衆に対する影響力が大きくて、さまざまな福祉事業や公共事業をやっていたので、仕方なく聖武天皇は私度僧である行基に頼り、大仏を建てるための布施を集めてほしいと頼んだわけです。

▲近鉄奈良駅の行基像

 こうして行基が大仏建立の意義を説いて回り、お金を集めてきたので、結果的に752年に大仏が完成します。残念ながら行基自身は749年に大仏の完成を見ることなく死去してしまいます。

▲奈良の大仏

 そして753年には、有名な鑑真(がんじん)というお坊さんが6回目の航海で日本に到着します。
 鑑真は日本に戒律をもたらすために何回も渡航を試みては失敗し、盲目になった状態でようやく日本にたどり着くわけです。そして日本初の正式な戒壇が奈良の東大寺に設けられることになります。

▲鑑真和上坐像(唐招提寺ウェブサイトより)

 なぜ鑑真を日本に呼ぶのが重要だったかというと、仏教の正しい修行はまず「戒」から始まるものであり、正式な仏教の僧侶になった人がその弟子に「この戒めを守りなさい」といって戒律を授けないといけないからです。
 その戒律を授ける資格のある人が当時はまだ日本に誰もいなかったわけですから、中国から呼んでこなければならなかったのです。

 奈良にある唐招提寺(とうしょうだいじ)には鑑真の彫刻(国宝唐招提寺鑑真像)がありますが、これが日本最古の肖像彫刻とされています。
 鑑真が開いた「律宗(りっしゅう)」は、日本最古の宗派です。

(次回に続く)