2026.05.18 22:00

魚谷さんの宗教講座 15
仏教編⑮
聖徳太子と「南都六宗」
ナビゲーター:魚谷 俊輔(UPF-Japan事務総長)
587年に蘇我(そが)氏が物部(もののべ)氏を滅ぼして、大和(やまと)朝廷は本格的に仏教を受け入れるようになります。
外来宗教である仏教が日本古来の宗教よりもはるかに高度で強力な宗教であることが分かると、豪族ごとの勢力に分裂していた当時の日本を統一するための力として、この仏教を用いようと試みるようになりました。
大陸には最新の文化があり、律令制度がありましたが、それらと一緒に仏教を統一国家のイデオロギーとして受け入れていったのです。
ですから、日本が最初に仏教を受け入れていった動機というのは、極めて国家次元の動機であって、国を統一するための新しい理念として受け入れていったわけです。
このようにして、仏教を中心とした中央集権型の国家建設に着手しました。その主導的な役割を果たしたのが聖徳太子(しょうとく・たいし)です。
聖徳太子は、推古(すいこ)天皇の摂政として蘇我氏と共に活躍した人物です。彼は、朝鮮半島から高僧を招いたり、遣隋使で留学僧を派遣したりして、仏教文化を日本に定着させようとしました。
聖徳太子自身が非常に仏教を深く学び、仏教経典の解釈書を書いたり、寺の建立を積極的に行ったりしました。聖徳太子が建立したお寺としては、法隆寺や四天王寺が有名です。また、有名な「十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」の背後には仏教思想があるといわれています。
このように、国の柱として仏教が取り入れられて、やがて平城遷都が行われると、仏教の中心的な役割は「鎮護(ちんご)国家」、すなわち国を守り安定させるための宗教という意味合いが強くなっていきます。
701年の僧尼令(そうにりょう)により、僧侶は鎮護国家を第一とする「官僧」になります。官僧とは、政府に雇われた僧であって、最初のお坊さんは国家公務員だったのです。国の安全を守るためにお祈りすることが仕事でした。
当時、国家から正式に認められた「南都六宗(なんとりくしゅう)」が日本最初の宗派として存在していました。
これは今のような信仰集団ではなく、仏教の理論を研究するグループであったようです。この人たちの役割は、遣唐使などによってもたらされた経典を読み解き研究することであって、いわば大学の教授のグループのようなものであると同時に、国家の安泰を祈る役割も持っていました。
華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)が「南都六宗」で、このうち最初の三つだけが今も「奈良系仏教」として存在しています。
その中で「律宗」というのが、日本に初めて戒律をもたらした鑑真(がんじん)という人が開いた、日本最古の宗派です。
(次回に続く)