2026.04.29 17:00

共産主義の新しいカタチ 105
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
戦前・戦後と繋がる共産主義者の“輪”
福本和夫と日本の構造改革派②
構造改革派の嚆矢(こうし)となった福本和夫
さて、日本で「構造改革」路線の嚆矢となったのは、江田三郎や松下圭一ら社会党構造改革派より以前、日本共産党で一時期大きな影響力を持った福本和夫(1894〜1983)でした。

福本はドイツのフランクフルト大学でルカーチに師事しており、ホルクハイマーと盟友たちが主宰した、「新しいマルクス主義」の可能性を模索すべくフランクフルト大学社会科学研究所の前身にあたる「マルクス主義研究週間」に参加しました。そこで一緒だったのは後にコミンテルンの大物スパイとなるリヒャルト・ゾルゲ、カール・ウィットフォーゲルらでした。
ゾルゲがコミンテルンのスパイであったことを考えれば、近衛内閣における政府中枢の情報が筒抜けだったこと、このことへの忸怩たる思いが、近衛に吉田茂と協力して終戦間際の「上奏文」を書かせたことが窺えます。しかし、その近衛の「告発」は不思議なことに、「終戦工作」には全く生かされず、ヤルタ密約によって対日参戦を既に決めていたソ連に仲介を頼む愚挙となって現れました。
近衛上奏文の内容は、以下にまとめられます。
①戦局の悪化で敗戦はもはや必至②「国体護持」を考えれば、脅威・リスクは降伏よりも混乱に乗じた共産革命の方が大きい③ソ連を主軸とするコミンテルンの脅威(例・ゾルゲ事件)④一部軍人や右翼によるテロ=共産主義者と同根⑤日本を破滅に導く軍人を排除、挙国一致内閣を組織すべき─というものです。
この近衛の認識は終戦後も変わらず、マッカーサーとの会見が以下に記述されています。(古関彰一『新憲法の誕生』)
近衛は戦争責任を軍閥と共にマルキストに求めてこう述べたという。「軍閥や国家主義勢力を扶け、その理論的な裏付けをしたものはマルキストであり、日本を今日の破局に導いたものは、軍閥勢力と左翼勢力との結合によるものである」
いかにマッカーサーが反共主義者であるとはいえ、いま自ら釈放せんとしている左翼政治犯に戦争責任があるという近衛の主張を驚きをもって聞いたであろうことは想像に難くない。
ともかく近衛は長々と話したあと「ちょっと調子を変えて」マッカーサーに聞いたという。奥村(秘書官)はこの場面を次のように復元している。「政府の組織および議会の構成について、何かご意見なりご指示があれば、承りたい」
これを聞いて、マッカーサーは急にキッとなり、特有の軍人口調で、「第一に、日本の憲法は改正しなければならん」
さて、トリアッティの言をエピグラフに引用した羽仁五郎は戦前、治安維持法違反で投獄。ですが、羽仁やその弟子である井上清らが、戦後の近代国史学を大きくマルクス主義的イデオロギーに染めてしまったこと、そしてこれらが、東大と京大という東西アカデミズムの両雄によって長らく権威と見做されてきたことに、戦後日本の歴史学の偏向の一端が現れています。
これまでそれほど注目を集めなかった戦後間もないマルクス主義・共産主義者の動向は、批判的に総括する必要がありそうです。
GHQ民政局が参照した鈴木らの憲法案
羽仁五郎とトリアッティ、ノーマンやゾルゲを結びつけるのが福本和夫であり、福本の弟子が「憲法研究会」をつくった鈴木安蔵(1904〜1983)でした。鈴木らの憲法研究会案は、たった9日間で作ったGHQ民政局のニューディーラーたちにとり絶好の「虎の巻」となったと言えます(古関『新憲法の誕生』)。
こうした現憲法の来歴はまさに、マッカーサー憲法というよりはむしろコミンテルン憲法と呼ぶにふさわしいものであったことが分かるのです。吉田茂は確かに戦後日本の独立の功労者ですが、近衛の「同志」にしては、近衛の憲法に対する熱意を受け継いだとは思えないのが、いわゆる「吉田ドクトリン」です。
サンフランシスコ講和条約で独立主権国家となった日本が今の今まで憲法を修正すらしなかったことは、政治的不作為に当たりますが、それだけ改正や修正が困難な硬性にしてしまったことは戦後日本の悲劇にほかなりませんでした。
さてハーバードで都留重人の同僚だったP・バランはコミンテルン人脈に連なり、戦略爆撃調査団に属し近衛を軍艦で激しく尋問した取調官でノーマンもその背景に居ました。
田中英道・東北大名誉教授も『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』で、「マッカーサーが日本政策において最も信頼していたアドバイザーの一人」としてノーマンを挙げています。
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コミンテルンと共産主義者と日本国憲法
中西 ノーマンは日本生まれのカナダ人ですが、戦前のイギリス留学時代にコミンテルンに加入して、それ以後、秘密工作員としてカナダ外務省に入り、戦後、ラティモアの強い推薦があったので、マッカーサーの特別の信頼を得て東京にやってきます。昭和二十九年九月に焼け野原の東京に入った時に、ノーマンが最初にやったことは、アメリカ共産党の秘密党員だった都留重人との接触を再開し都留と一緒に鈴木安蔵というマルクス主義憲法学者を探し出したことでした。そして、鈴木に「憲法研究会」を作らせたのです。ノーマンは、いずれGHQや日本政府で憲法草案作りが始まることを見越して、日本人の“自発的意思”による「民主的な」憲法草案をマッカーサーに突きつけることで、日本革命への一里塚としての憲法採択をやったわけです。こうして鈴木らの「憲法研究会」がいわば「やらせ」として作らされた草案が、現行の「日本国憲法」に最も近似したものとされていますが、これは当然のことだったんです。……鈴木安蔵と憲法研究会自体が、実はハーバート・ノーマンによってオーガナイズされたコミンテルンの工作組織の一端だったわけですから。(中西輝政・小堀桂一郎『歴史の書きかえが始まった コミンテルンと昭和史』)
★「思想新聞」2026年4月1日号より★
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