共産主義の新しいカタチ 96

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

マルクス主義と共産党の「死」を宣告
ルイ・アルチュセール(下)③

共産主義と冷戦崩壊の序章にも

 今村仁司氏(前回参照)は結局、「アルチュセールの構造的マルクス主義」という思想は、「アルチュセールの思想」ではあるけれど、つまるところは「マルクス主義」とは似て非なるものであることを言いたかったのでしょうか。

 さしずめ、「正統派マルクス主義」からすれば、アルチュセールは「転向者」に映ることでしょう。その意味でアルチュセールは(「正統派マルクス主義」に比べると)まだしもドグマやイデオロギーに囚(とら)われていなかった、逆に言えば、「アルチュセールの知的真摯さ」を傍証しているといえるかもしれません。

 旧ソ連の共産主義は「スターリニズム」と呼べるものであり、それと反目する形で登場した中国共産党の「毛沢東主義」(マオイズム)も「大躍進」「文化大革命」の失敗と毛沢東の死、「四人組」失脚によって、「目からウロコ」が落ちたような思いだったのかもしれません。それに加えフランス、ドイツ、日本を含む1960年代末の「世界同時革命」の挫折という時代背景も大きかったと言えるでしょう。

 アルチュセールの「すべての共産党は死んだ」という衝撃的な記述にはそうした時代背景を感じさせますが、未発表の「限界の中のマルクス」が書かれた1978年の時点ではソ連はブレジネフ体制のまま、中国は鄧小平による「改革開放」が始まっていませんでした。その意味でアルチュセールの記述は、後の「冷戦崩壊」をも予感させる幾分予言的な意味を帯びているといえるかもしれません。それでもアルチュセールは当時、フランス共産党に対し、「プロレタリアート独裁」を放棄することに反対し続けたと言います。その意味でアルチュセールは「マルクスによらざる共産主義」「マルクス主義ドグマを離れた唯物論」を模索したといえそうです。

 アルチュセールの論文「限界の中のマルクス」は生前は発表されませんでしたが、以降、最晩年は「マルクス主義のドグマ(教説)を離れた唯物論」の可能性を模索するようになり、対話集『不確定な唯物論のために』として結実します。

 この「不確定な(偶然性の)唯物論」とは何か。アルチュセールは『不確定な唯物論のために』で次のように述べるのです。

 「『真の』唯物論=マルクス主義に最も適した唯物論=不確定な唯物論」だとして、「エピクロスやデモクリトスの路線」の伝統の中にマルクスを位置づけているのは、「合理論的伝統のうちにあるいっさいの唯物論と同様、…必然性と目的論の唯物論、つまり、観念論が偽装した形式である唯物論」に反対している、というのです。

▲エピクロス

▲デモクリトス

 そこでアルチュセールが強調するのは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」(「哲学は世界を様々に解釈してきたにすぎない。重要なのは世界を変えることである」)でした。

 こうして哲学とは結局、「体制(権力)側」のものとなり、「日和見主義者は権力の手先」という、共産主義イデオロギーの呪縛を踏襲することを意味します。実はこのイデオロギーこそ、「賛同しない者は全て敵」と見なす戦闘的唯物論の論理に他なりません。ここから設計主義に基づく社会主義体制の過誤が繰り返され、その犠牲者が死屍累々(ししるいるい)と横たわるのです。この点を、アルチュセールは一切指摘しません。

機械論的設計主義を免れても無政府状態
 アルチュセールは目的論を否定し真理性をも否定するに至り、「唯物論的な諸哲学は、理論に対する実践の優位を主張する」「絶対的な真理とは……最初から存在せず、偶然的な実践の積み重ねにより、生成する《真理めいたもの》が後付けされる」としました。

 しかしながら、真理や目的論を排除して「構想」も認めないなら「無政府状態」に陥りやすくなる。これがまさにアルチュセールの難点と言えるのです。

「思想新聞」2026年2月1日号より

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