2026.01.28 17:00

共産主義の新しいカタチ 94
現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)
「問いの体系」と「認識論的切断」
ルイ・アルチュセール(中)②
イデオロギーからの解放のプロセス
その「マルクスのイデオロギー克服」について、マルクス主義全体の中で占める「哲学」の地位の低下は、特にロシア革命以後に顕著に見られた中で、アルチュセールはマルクス主義思潮におけるいわば「哲学の復権」を企てたといえます。
社会主義体制下で「ルイセンコ主義」や「大躍進」など「イデオロギーの下僕となった疑似科学」の横行に代表されるように、マルクス主義・共産主義思潮を哲学的次元から立て直そうと試みたのが、アルチュセールでした。そのための「イデオロギーからの解放」というプロセスを、今村仁司は『アルチュセール全哲学』の中で次のように述べています。
マルクスの言説から、いくつかの要素を取り出して、それらを観念論と唯物論に振り分ける操作がある。そうした操作は、マルクスの思想の「源泉」や「先駆者」を語ったり、あるいは反対に、観念論的でありながら「既に唯物論を先取りしていた」といった、「後に発芽し開花するであろう萌芽」論を語ったりする。…アルチュセールはこうした歴史の書き方を「前未来形で書く歴史」と呼んでいる。このような読み方にはいくつかの前提が隠されている。
1.要素還元的前提。あらゆる理論体系や思想は要素に還元できると主張する。それは分離された要素を、先駆者と後継者、観念論と唯物論に割り振り、相互の比較が可能と考える。
2.目的論的前提。目的=終わりから遡及して理論や思想を裁く。歴史の中で複雑な条件を受け止めながら進行する思考の過程を無視して最初から「ゴール」を設定している。
3.観念の自律性の想定。これは思想が自分自身の内部だけで自己了解を遂げうると前提している。
これらの前提を持つ読み方は、一言で言えば、目的論的読み方と言える。それは、諸要素が全体の構造の中で持つ意味を無視して、単独に取り出したり、割り振ったりできると信じている。決してゴールなど予定されえないのに、独断的なゴールを設定するところから、こうした無理がまかり通る。決して自己の外部に出ることなく、観念の内部で自己了解を遂げて、思想の自己内発展のモデルを作り上げる操作、それがイデオロギーの特徴である。これを退ける時、新しい読み方が可能になる。(『アルチュセール全哲学』)
マルクス自身が独断的ゴールを設定する
さて、以上の今村の記述は、「もっともだ」と思うかもしれません。確かに「読み方=解釈」の違いが、マルクス主義における「哲学の悲劇(あるいは苛酷な運命)」を招いてきたのではないかと。ところが、私たちの知る限り、今村=アルチュセールのいう「目的論的読み方」に立っているものこそ、実は「マルクス主義」自身である、といえるのではないでしょうか。
今村は「マルクス主義の哲学は、他の諸々の思想類型をブルジョワ的だと批判し告発する批判主義的思想ではない」と弁明しますが、これはプルードンの『貧困の哲学』を揶揄(やゆ)したマルクスが『哲学の貧困』を著したように、プルードン批判のためなら何でもありという「戦闘的アジテーター」というのが、残念ながらマルクスの本質と言わねばなりません。
さらに、「目的論的読み方」の前提の二番目にある「最初から独断的なゴールを設定している」のは、マルクス自身といえるのです。すなわち、プロレタリアートによる暴力革命によって社会主義社会、共産主義社会が実現するというのは、ある種の「終末的ユートピア論」であるといえ、まごうことなく「予定調和的な目的論」のはずです。「いや違う、この点はヘーゲル哲学からの受け売りに過ぎない」と弁明されるかもしれませんが、この点こそが、いわば若者たちを「革命幻想」へと駆り立てていった左翼の「イデオロギー」であったことを指摘せねばならないでしょう。
★「思想新聞」2026年1月15日号より★
ウェブサイト掲載ページはコチラ
【勝共情報】
国際勝共連合 街頭演説「衆院選は“普通の国”革命のスタートだ」2026年1月22日 恵比寿駅