ほぼ5分で読める統一運動 67
共産主義体制国家の崩壊と、その後の世界

稲森 一郎

 統一運動から見た共産主義体制国家の崩壊について見てみましょう。
 1989年から90年代初めの最も特徴的な出来事は何といっても共産主義体制国家の終焉(しゅうえん)です。

 1989年、ソビエト連邦の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義体制が連鎖的に倒れ始めました。
 ソ連が経済危機に陥ったことで、東ヨーロッパに対する影響力を弱めたことが原因です。東欧の民主化が一気に実現していったのです。

 1989年119日のベルリンの壁の崩壊。1117日のチェコスロバキア共産党の一党支配の崩壊。1215日から25日にかけてのルーマニア革命。そして19909月のポーランドの非共産党系内閣の誕生など、東欧共産圏の崩壊が次々と起きました。

 さらに、1991年のエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のソビエト連邦からの分離独立、199112月のソ連の崩壊に至るまで、瞬く間に共産主義国家の終焉劇が起きたのです。

 その上、ソ連崩壊後のユーゴスラビア紛争(19912000年)、アルバニア社会主義人民共和国の崩壊(1992年)など、バルカン半島諸国の崩壊まで含めると、共産主義体制の爆発的な終わりが東欧全体を襲ったのです。

 このような現象は、20世紀の現代史でも特筆すべき出来事であり、ソ連自体が滅び、ソ連の影響下から抜け出して東欧圏の革命が一気に起きた現象は、まさに歴史上の恐るべき審判劇でした。

 1990年代の意味を探ると、「共産主義の消滅」という隠されたテーマがあったように思われます。
 メディアはそのようなことを一切言わないのですが、共産主義崩壊の嵐が吹き荒れていた時、中国と北朝鮮の共産党政権の独裁的指導者たちは戦々恐々とした思いでソ連と東欧の共産主義の国家崩壊を見つめていました。

 ここで最大の疑問が生じます。
 なぜ、中国と北朝鮮は崩壊を免れて、共産党支配の体制のままで生き残ることができたのか。

 これに対する答えは、アメリカの責任放棄です。
 中国に対するアメリカの見方が、終始一貫して甘かったということに尽きます。

 中国は、経済成長をすれば共産主義を捨てて普通の国になる、民主化の流れに乗ってやがて民主主義国家になるだろう。何も心配はいらないという見方が、アメリカの政界、経済界にありました。
 これが大きな間違いでした。

 中国は牙を隠し、着々と経済の成長と発展に努めました。ソ連にあれほど神経をとがらせて冷戦を戦い抜いたアメリカの厳しい姿は、中国に対しては全くといってよいほどありませんでした。

 先進国のアメリカ、EU(欧州連合)、日本の技術と外国資本を歓迎しながら、中国は莫大な利益を得て、肥え太っていきました。

 力を蓄えた中国がやがて飼い主にかみついてくるなど想像もしなかったアメリカが中国に警戒心を持つようになったのは、太平洋を東西に分け、東半分をアメリカが、西半分を中国が支配するという太平洋統治案を突き付けられた時です。
 中国は2000年代に入って、厄介な「怪物」に成り代わっていたのです。

 アメリカは、経済のグローバリゼーションによる自由貿易を推進し、その結果、アメリカ自体の国内産業が空洞化して打撃を受けたことが、アメリカ自体の大きな問題となっていきます。

 アメリカのラストベルト(アメリカ中西部地域の工業地帯)が衰退した主な理由は、中国に生産基地を移し、中国で生産した低コスト商品を買い入れて、自国の産業を空洞化させたグローバル化の経済政策が大きな要因でした。