共産主義の新しいカタチ 76

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

オイディプス物語と倫理規範の極限
クロード・レヴィ=ストロース (中)

フェミニストが根拠づけられぬ禁忌
 本欄では、文化によっては日本のように「男性の交換」すら行われる場合があるという実例を紹介しました。ところが、フェミニストがいくら非難したとしても、フェミニズムからは「インセスト・タブー」すなわち、「近親婚(近親相姦)の禁忌」の根拠は説明できません。この難問を説明するのに、レヴィ=ストロースは「オイディプス神話」を手がかりにします。以下、粗筋です。

 最高神ゼウスは雄牛に化け美女エウロペを誘拐する。彼女を捜索に出かけた兄カドモスは、デルポイでアポロンの神託を受け、荒野に都(テーバイ)をつくる。都の外の洞窟に住む竜を退治したカドモスは、その牙を畑に撒く。するとその牙から甲冑をまとった竜の戦士らが生まれ、互いに殺し合いを始める。

 カドモスの曾孫ライオスは「自分の子供の手にかかって殺される」という神託を受け、妻イオカステとの間に生まれた王子を山中に捨てるように密かに臣下に命じる。拾われた王子は金の留め金で足を刺し貫かれていたため「腫れ足(オイディプス)」と名づけられ、隣国の王宮で育つ。育ての親を本当の両親と信じ成人したオイディプスは、「父を殺し、母と通じる」というアポロンの神託を恐れ王宮を離れ旅に出る。そして山中で出会った暴虐な老人を実父ライオスと知らずに怒りにまかせて打ち殺す。

 オイディプスがたどり着いたテーバイでは怪物スフィンクスが謎をかけ答えられない旅人を食い殺していた。オイディプスは謎を解き王位と王妃イオカステを獲得。だが、テーバイに再び悪疫が訪れる。ライオスの殺害者を発見してこの凶運を鎮めようと焦ったオイディプスは、全ての真実を知る。イオカステは自殺し、オイディプスは自らの目を潰して放浪の旅に出る。

▲アングルの「スフィンクスとオイディプス」

 さて、レヴィ=ストロースがオイディプス物語を四つの説話群に分けたチャートで(下図)説明します。

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 「左端の説話群に取りまとめられた出来事の全ての関係は〈誇張された〉血族関係に関わっている。ここで、親族たちは、社会的な規範が許す限度を超えて親密な関わりを結んでいる。それゆえ、第一の説話群の共通点は、『過大評価された親族関係』とする。第二の説話群は同一の関係に正逆反対の記号をつけたものであることがすぐにわかる。これは過小評価された(価値を切り下げられた)親族関係ということになる」と、レヴィ=ストロースが『構造人類学』で記述したように、このチャートの四つに分けられたカテゴリー(説話群)のうち、重要なのは、第一と第二のカテゴリーです。「誇張された血族関係」、この極端さが、いわば「倫理・道徳の一線」だと、レヴィ=ストロースは主張するのです。

 この点を「第一説話群の『過剰評価された親族関係』とは具体的には『近親相姦』のことであり、第二説話群『過小評価された親族関係』とは、具体的には『近親間の殺し合い』のことである。これは親族集団を崩壊させる二つの極限として示されている」と『現代思想のパフォーマンス』が解説。

 前者が「オイディプスの母イオカステとの結婚」に象徴されるものであり、後者が「オイディプスによる父ライオスの殺害」に象徴されるもので、まさにこの両者は、「親族集団を崩壊させる二つの極限」であると言えるでしょう。それは、あえてレヴィ=ストロースの考え方を敷衍(ふえん/おし広げること)すれば、かつての毎日新聞「変態記事事件」や、身内親族殺しという凶悪事件が突発することは、こうした「二つの極限」が「倫理的歯止め」とならなくなっています。

極限示し外側から道徳を根拠づける
 さらに重要なのは、次の「このような危機的な親族関係においては、家族を成立させている差異が失われ、成員たちは安定的な親族役割(父、母、兄弟姉妹、子)に自己同定できなくなっている」という指摘です。

 これは昨今の夫婦別姓問題や民法「改悪」による「多様なる家族」観の目指すものが何であるかを示唆しているとも言えます。

 そして「近親相姦する集団では、あまりに血族内での親密さが濃密なため『集団を外部へ押し広げる力』が失われている。一方、近親間で殺し合う集団では、あまりに親族的な親密さが希薄なため、『集団を求心的に取りまとめる力』が失われている。自閉して外部を持たない共同体と、求心力を失って離散する共同体という二つの極限形態の間に人間たちはその社会モデルを設定しなければならない。つまり、『父を殺し、母と通じた』オイディプスとは、人間が決して超えてはいけない二つの極限を身をもって示しているのである」という同書の表現は、資料(下記)に掲げた箇所と相まって、人間の倫理道徳というものを、「倫理の埒外」を示すことにより、外側から根拠づけている(哲学的に「超越論的」と言います)と言えるのです。

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「思想新聞」2025年7月15日号より

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