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ダーウィニズムを超えて 125

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第九章 科学時代の新しい神観

(二)統一思想による新しい神観

(2)男性と女性としての神

2. 陽性と陰性の中和体である神
 鉱物界は陽陰のペアでできており、生物界には雄と雌の性があるということ、つまり宇宙はペア・システムから成っていることを見てきた。統一思想の提唱者である文鮮明(ムン・ソンミョン)師は次のように語っている。「今日、この存在世界の中で最大の神秘があるとすれば、それは、ほかならない男と女が生じたという事実です。また、動物においては雄と雌が生じたという事実です。さらに、植物世界においても、やはりオシベとメシベがあり、鉱物世界においても陽イオンと陰イオンがあり、このようにすべてがペア・システムでもってできているのです。男と女、雄と雌、この比率が神秘中の神秘なのです(*17)」。

 宇宙がペア・システムであるということは、宇宙の根源である神にその原因がなくてはならない。陽陰とは全く関係がない神、性とは全く関係のない神から、ペア・システムの世界が生まれたというのは、「無からの創造」の場合と同様、合理的ではないからである。結局、神は男性でもなく、女性でもなく、両者の性稟(せいひん)を兼ね備えた父母の神ということになる。

 ところがキリスト教では、伝統的に神を父として、男性格で表現してきた。しかし、それは神を男性と見たからでなく、古来からの家父長制に基づいた概念であるという。そして神学者たちの多くは神には性がないと明言しているのである。しかし歴史家のポール・ジョンソン(Paul Johnson)が述べているように、「自分自身は性のない神が、そもそもなぜ性を創造したのか(*18)」という問題は、ほとんど論じられることはないが、大きな問題なのである。

 ポール・ジョンソンは「神は男性か女性か」という題目の下で、「神を父として、あるいは母として、あるいは両親(父母)として考えるほうが信仰の助けになるという人には、それはそれで全く自由に許されるべきだ(*19)」と述べて、神が父母の神である可能性に触れている。また神学者のジャック・マイルズ(Jack Miles)は全米でベストセラー(宗教部門)になった『神の伝記』(1995年)の中で、ユダヤ・キリスト教において、神は男性と女性が一つになった姿であり、人間のカップルの中に神の姿を見る、という観点もあったと、次のように述べている。

 人間の男性だけが神のイメージであるのではなく、男性的なものと女性的なものが一緒になったものだけがそうなのである(*20)。

 創造のはじめで、神は複数形で自分自身について語り、そして人間の男子ではなく、人間のカップルの中に自分自身の姿を見た(*21)。

 統一思想において、神は「本性相と本形状の中和的主体」であると同時に、「陽性と陰性の二性性相の中和的主体」または「本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体」であると表現する。そして、神と被造世界との関係から見るとき、神は男性格主体であり、被造世界は女性格対象というのである。

 神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であるので、個々の被造物(個性真理体)は性相と形状の統一体になっている。さらに本性相と本形状はそれぞれ陽性と陰性の属性をもっているので、被造物は「陽性を帯びた性相と形状の統一体」と「陰性を帯びた性相と形状の統一体」に分立されるのであり、それぞれ「陽性実体」と「陰性実体」という。かくして被造世界は陽性実体と陰性実体のペア・システムになっているのである。

 鉱物における陽性実体と陰性実体は陽イオンと陰イオンであるが、そこにおいて神の陽性と陰性は物理化学的な次元における性相面と形状面の陽性と陰性として現れている。植物における陽性実体と陰性実体は、オシベとメシベ、または雄の植物と雌の植物であるが、そこにおいて神の陽性と陰性は、生命の次元における性相面と形状面の陽性と陰性として現れている。動物における陽性実体と陰性実体は雄と雌であるが、そこにおいて神の陽性と陰性は、本能の次元における性相面と形状面の陽性と陰性として現れている。人間における陽性実体と陰性実体は男と女であるが、そこにおいて神の陽性と陰性は、愛の次元における性相面と形状面の陽性と陰性(男性の愛と女性の愛、および男性的な身体と女性的な身体)として現れている。当然のことながら、高次の存在において、低次の存在の陽性と陰性は内包されているのである。以上の内容を図示すれば図93のようになる。

 それでは陽性と陰性は何のためにあるのだろうか。愛のためである。アダムとエバが成長して、神を中心とした夫婦となって愛し合うとき、神の陽性と陰性の調和に似た姿となり、神がそこに臨在し、愛の歓喜を満喫されて、神の創造目的が完成するようになっていた。そして動物の雄と雌、植物のオシベとメシベ、鉱物の陽イオンと陰イオンは、次元は低いけれども、人間の男女の愛をモデルとして造られたのである。

 万物世界が存在する意義は男女が愛し合うための愛の環境をつくるためであり、万物は愛の装飾品である。したがって花が咲き、鳥がさえずるのも、男女の愛の雰囲気を高めるためなのである。ところがアダムとエバの堕落のために男女の愛は真の愛になれなかった。そのため万物は今日まで、その本来の役割を果たすことができないでおり、万物は本然の男女が現れるのを切に待ち望んでいるのである。もちろん万物は男女の愛だけではなく、親子の愛、兄弟姉妹の愛の雰囲気を高めるためにも存在している。ここでは男女の愛を強調したが、それは男女の愛が人間の愛の完成のキーポイントになっているからである。


*17 文鮮明「世界統一と頭翼思想、神主義」『ファミリー』199111月号、45頁。
*18 ポール・ジョンソン、高橋照子訳『神の探求』共同通信社、1997年、82頁。
*19 同上。
*20 ジャック・マイルズ、泰剛平訳『神の伝記』青土社、1997年、351頁。
*21 同上、531

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 次回は、「普遍論争について」をお届けします。


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