スマホで立ち読み Vol.41
『天の父母様に侍る愛と喜びの生活』6

蝶野知徳/著

(光言社・刊『天の父母様に侍る愛と喜びの生活』〈2025422日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第41弾、『天の父母様に侍る愛と喜びの生活』を毎週火曜日(予定)にお届けします。

 天の父母様(神様)の愛を一身に受け、その愛を夫婦で、親子で分かち合いながら、喜びを持って天に侍る家庭となることを目指します!

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1章 総論

3. 信仰によって真の愛の軸に還る
——神様の胸の中にある「愛の設計」に沿って生きる

 蕩減(とうげん)復帰時代においては、愛すべきものを犠牲にして条件を立てることがありましたが、今の時代は、愛すべきものを真に愛して完成しなさいという時代です。

 つまり、愛の実体と実績が問われるということを意味します。簡単ではありませんが、私たちの心が願っている愛の生活を実現するということですから、素晴らしい時代が来たと言えるでしょう。

 人間の成長期間には、蘇生(そせい)期、長成期、完成期があり、その上に完成基準線があります。原理軌道に従って成長していくことによって、初めて人間の個体的完成がなされて、神様と愛で一つになります。

 しかし堕落したことによって、人間は自分なりの愛の主張を始めました。「愛が大切なのは分かる。だから私も愛に生きるので、神様も信仰も要りません!」と言って、原理の軌道からずれていくようになりました。

 人間は、自分が設計も創造もしていない愛を、「これが私の愛の美学だ」、「これが私の結婚観だ」と自分で決めつけてしまうようになりました。これが堕落の実証です。そうではなく、自分が“創造された”設計に関心を持つのが賢明です。その設計は、神様の心の中、つまりみ言(ことば)の中にしかありません。考えの基準を自分に置けば、永遠に愛も神様も分からなくなるのです。

 真の愛を考え出したのは誰か? 愛の主人は誰か? 神様です。愛の設計は、神様の胸の中にあります。それに沿って生きていくのが、人間の真の幸福です。それが分からなくなったので、み言が必要になるのです。

 信仰は、信仰者を創(つく)るためにあるのではなく、愛の完成のためにあります。その目的からずれていく自分を「原理」の軸に修正し、戻すためのものです。訓読も敬拝も同じです。み言で自分自身を創造していくわけですから、「自分なりの成長」というものはあり得ません。

 今は、信仰のゴール(目的)が見える中で信仰することができる、恵まれた時代です。愛において自分をなくし、神様の心と一つになることが望まれています。妻を抱き締めれば神様を抱いていると感じ、夫に抱き締められれば神様に抱かれていると感じ、子供を見れば、自分の心から神様の愛が湧いてくる、これが自立した愛の人です。自分というものがゼロなので、愛において自立できるのです。原理の実体とは、愛の実体です。

 「信仰」は、一つの“仕事”のように、生活に加えて行うものではありません。生活と信仰を同じものとして感じられるようになるのがよいのです。高度ですが、可能です。そして喜びがあります。二つに分かれているうちは完全な喜びには達しません。

 夫に対して、神様が与えてくださった方だと感謝して接すれば、夫を愛しながらも、神様からの愛が来ます。子女を愛していても、神様から授かった宝を私が愛せるという喜びで接すれば、神様の愛が私に来るようになります。そうなれば、信仰と生活、信仰と育児というものの境界が、だんだんなくなって一つになります。信仰生活ではなくて、「生活信仰」です。信仰生活とは、信仰のある生活ですが、生活信仰とは、生活そのものが信仰になることなのです。

【ワーク】
1章(総論)の中で、印象に残った部分を一つ選んでみましょう。それを選んだ理由や、感想も共有しましょう。

現在、課題だと思っていることがあれば、心の中で具体的に挙げてみましょう。また、本書全体を通してどんなことを学びたいか、イメージしてみましょう。

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 「スマホで立ち読み」での連載は、今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。続きは、ぜひ書籍でご覧ください。



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