夫婦愛を育む 43
責められたら開き直る

ナビゲーター:橘 幸世

 人間は、己の非を認めるのが本当に難しいと思います。

 男性のプライドに関する講義で、男性は一般的に自尊心ゆえに(特に妻の前では)非を認められない、時に逆ギレして怒り出す、とお話ししていますが、自覚していながらもいざとなると自分の非を100%認められないのは、男性に限ったことではありません。

 妻に早く帰ると約束したのに、急な残業が入ったり同僚などに誘われて飲んだりして、夫の帰宅が遅くなったとします(“妻”と“夫”を入れ替えていただいても結構です)。
 帰る道すがら、夫は「妻が機嫌悪いだろうなぁ。怒ってるだろうなぁ」と、弁解の言葉も考えながら、覚悟して帰って来ます。約束を破ったのだから、それも仕方ないと思っています。

 が、実際、妻に責められ嫌味の一つも言われると、ムッとして不機嫌になり、やがて腹を立てたりすることがままあります。
 「仕方ないだろう、仕事なんだから」「俺だって好きで飲んでいるんじゃない。付き合いも大事なんだ」と言って、自己弁護、さらには妻への攻撃も始まるかもしれません。そして、「もう知らん! 金輪際早く帰ろうなんて思わん。仕事優先だ!」などと開き直るかもしれません。

 私たちは、たとえ自分に非があって悪かったと思っていても、責められると、罪の自覚がどこかに行ってしまうのでしょうか?

 責められると、責め返す。
 「自分だけが悪いんじゃない」と、他者の中にも非を見つけ出す。
 責めを100%自分で受け止めきれない。
 心のどこかで言い訳をしている。
 「どうせ自分は…」と、開き直る。

 これは自分を責めがちの人にも言えることかと思います。責めを当然として受ける謙虚さや素直さを持ち切るのは簡単ではありません。
 そうした人間の性(さが)を認識することは大事な一歩ですが、それだけでは失望で終わります。

 ヨーロッパにいた時、仲良くなった若い女性に堕落論を聞いてもらいました。彼女はとても悲しそうな顔をして「“お前は駄目な人間だ”と言われているように感じて苦しかった」と言いました。自分に自信の持てないタイプゆえに余計にそう感じたのかもしれませんが…。

 罪を自覚した者を包み込んでその罪をも溶かしてしまうような天の愛に触れて、人は本当の意味で回心し、信仰が出発するのではないでしょうか?
 責めずに不足も含めて受け入れてもらってこそ、人は安心して、素直に自分の非を認められるかと思います。

 誰かが非を認めてきた時は、神様に倣って、決して責めずに、むしろその姿勢を称え、愛で包むように心掛けていきたいものです。