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レダ摂理 8

(『世界家庭』2016年12月号「レダ摂理(後)」より)

 『世界家庭』に掲載された飯野貞夫さんの証しを、毎週水曜日配信(予定)でお届けします。
 飯野絢子(あやこ)さんの証しに続き、絢子さんの夫であり、サウジアラビア国家メシヤとして活躍した飯野貞夫・天一国特別巡回師(777家庭)のレダでの歩みを紹介します。(一部、編集部が加筆・修正)

▲飯野貞夫さん・絢子さん夫妻(20108月)

23か月ごとの訪問をやめ、長期滞在を決意

 私は2000年2月1日、レダ支援部隊に責任を持つ事務局長として、初めて現地入りしました。以来、通信手段が乏しい現地の情報を支援協力者に素早く提供して一層の理解と協力を得られるよう、2、3か月に1度のペースで東京とレダを往復していました。

 格安チケットを買い、幾つもの重い荷物を担いで、片道30時間ほどかけて乗り継ぎながら行き来するわけですが、み旨という大志の前には全く苦になりませんでした。

 現地での取材は、初めはスチールカメラだけでしたが、次第にビデオカメラも併用するようになりました。編集からナレーションまで、光言社の協力を得て、20本近いビデオを制作し、順次提供しました。これによって、一段と分かりやすく現場を紹介できるようになり、支援者たちにも喜んでもらえました。

 私が撮ったレダの写真は、それだけにとどまりませんでした。2005年10月にパラグアイのニカノル・ドゥアルテ大統領が来日した折には、当時のパラグアイの日本大使の要望もあって、この写真を使って「パンタナール・レダ写真展」(東京・赤坂の全日空ホテルのロビー)を開くことができたのです。大統領も大変喜び、晩餐会に招待してくれました。

 こうして私は頻繁にレダとの間を行き来しましたが、毎回23週間の滞在では、取材するだけで精いっぱいでした。そこで、先ほど述べたとおり、2002年と2006年には妻を伴って40日間滞在したのです。期間中は開拓の手伝いをしながら、支援に生かせるように現地の事情をつぶさに理解することを心掛けました。妻は食事作りや掃除などで力を発揮し、現地の労働者の婦人たちとも楽しそうに交流していました。

▲現地の婦人と絢子さん

 2006年後半からは、日本事務局を柴沼邦彦さん(モナコ国家メシヤ、777家庭)に託して、本格的にレダに長期滞在をするようになりました。現地取材は、近隣の村々との交流を含め、より広範囲になり、それを映像や記事にして日本に送りました。

 現場の責任分担としては、植樹関係を管理することになりました。多くのかたがたの協力で成り立ってきた植樹園は、NPO法人「地球の緑を守る会」の担当分野で、責任者の高津啓洋さん(エストニア国家メシヤ、777家庭)が来園して植えていきました。ところが、担当者を常駐させられないため、現場の管理は現地に委託されていました。

 すでに何千本もある木々の中には、水害(数か月間、洪水状態)や塩害(塩分が多い土壌)で枯れたり傷んだりしているものもかなりありました。さらに、それぞれの木の奉納者の氏名を杭に書いて表記していたのですが、それもトラクターで草刈りする際に折れたり、踏み倒されたり、マジックで書いた文字が強い日差しと風雨にさらされ数年でほとんど読めなくなったりという状況で、管理が困難になっていました。

 そこで、6か所ある植樹園のマップを作り、誰がどの木を奉納し、それがどこにあるか、元気か、枯れてしまっているかなどを正確に把握する作業に取りかかりました。植樹園はトラクターが入らず、やぶとなっている所がほとんどでした。灼熱の日差しの中、やぶ蚊の襲来を受けつつ、毒蛇やサソリに気をつけながら、また、とげだらけの雑草ややぶ木で引っかき傷を作りながら、悪戦苦闘を続けました。

▲完全防備で植樹園の調査をする飯野さん

 枯れた木の代わりに新しい木を植え、名札を付け替えて、そのつど、マップに記録していくという根気の要る作業でした。自分が奉納した木がどうなっているか問い合わせがあったときは、写真に撮って、日本事務局の戸石文夫さん(ジブチ国家メシヤ、1800家庭)に送るということもシステム化しました。こうして、1か月ほど黙々と取り組んだ結果、ようやく全ての植樹園にある木の一本一本の状態を把握することができたのです。

 それでも過酷な自然環境の中で、少し目を離してケアが遅れると、たちまち荒れ果てて、やぶとなっていきます。私がレダを離れた後は、伊達勝見さん(ラオス国家メシヤ、1800家庭)が担当していますが、苦労していることと思います。

(続く)

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 次回は、「猛獣とも草花とも会話できる本然の世界を体験」をお届けします。