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週刊ブレラ 5
神はいるのか、いないのか、霊界はあるのか、ないのか…

編集部

 「信教の自由」「宗教の自由」は、内心に関する制約は一切されるものではないという、いずれも“内心の自由”に属するものです。

 とはいえ、内心の自由の本義は「何を信じようが、どう考えようが、そんなの私の勝手でしょ」という理屈を正当化するためのものではないはずです。

 信じることは、時に生命を懸けたものとなります。試練や迫害を耐え抜く信念の強さもまた、何事かを信じているからこそです。

 例えば、「神はいるのか、いないのか」「霊界はあるのか、ないのか」「人は永生する存在なのか、否か」「イエス・キリストは救世主・メシヤなのか、そうではないのか」などなど、信じる内容、すなわち信仰というものは、「何を信じようが、どう考えようが、そんなの私の勝手でしょ」と言って済むものではないのです。

 ですから、「自由」というのもすごく大事なことだけれど、「信教」の中身はもっと大事なこととして理解されなければならないのです。

 本当に信じていれば、信じる内容いかんによって、その生き方も振る舞いも行動も変わっていきます。
 つまり、自由も大事な問題ですが、何を信じているかを問うことは、実は人生に関わる極めて重大な事柄だということなのです。

 ですから、「何を信じても構わない、それはあなたの勝手だ、自由だ」ということは最終ゴールではない、ということです。

 私の信じていることを実証すること、私の信じていることを他者にも信じてもらえるように尽力することが肝要なのです。

 「自由」が主体になってしまうと、「あなたの信教の自由は認めるわ。でも私にあなたの信じていることを強要しないでね」ということで終了となってしまいます。

 信じることが生き方であるということの意味は、信仰すなわち人生であるということです。
 より良い人生、より良い社会を欲するからこそ、「それ」を信じるのであり、自他ともに幸福になりたいと望むからこそ、「それ」を信じるのです。

 四つの精神的自由といわれる「思想・良心の自由」「信教の自由」「表現の自由」「学問の自由」もまた、人々(神と人々と万物)に真の幸福をもたらす自由でなくてはなりません。

 「攻撃は最大の防御なり」といいます。
 侵害された自由を守り、奪われた自由は取り戻さなければなりませんが、同時に今こそ、私たちが信じる統一原理の価値、神と霊界の実在と人間の存在理由、人生の目的というものを、一人でも多くのかたに理解していただく必要があるのではないでしょうか。

 それを「伝道」と呼ぶならば、伝道は“攻めること”となるでしょう。

 そして統一原理を学んでくださったかたが、自らの信教の自由を真の意味で行使したくなるほど心から納得していただけるよう、真の父母様の生涯と業績を証しし、伝えていかなければならないのが私たちの「真の子女としての責任」ではないかと思うのです。

 皆さんはどのように考えますか?


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