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幸福への「処方箋」12
第二章 幸福実現への障害発生――「堕落論」
善悪を知る木の実

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第4弾、『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』を毎週日曜日配信(予定)でお届けしています。

野村 健二(統一思想研究院元院長)・著

(光言社・刊『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』より)

善悪を知る木の実

 一般のキリスト教徒は、『聖書』のこの記述から、ただ漠然と、人間の最初の祖先が、「善悪を知る木」という木の実を取って食べ、このことがすべての罪の根となったのだと理解しているだけです。しかしこの「善悪を知る木の実」というのは果たして文字どおりの木の実のことなのか、それとも、何かの比喩(ひゆ)か象徴なのでしょうか。

 逐語霊感説を信奉する最も保守的な神学者は、これは文字通り、何かの木の実だと見なければならないと主張します。しかし大部分の神学者は、この「エデンの園の物語」に限っては、比喩的な表現が混ざっていると見るのが妥当だとします。例えば、教父哲学の第一人者であるオリゲネスは、この物語を純粋な比喩だとみなしています。原罪についての教義を確立したアウグスティヌスも、その物語の一部は本当に起こった歴史上の事実だが、一部は霊的な真理を象徴的に表現したものだと言っています。

 統一原理もそれは象徴的な表現だと解する明確な根拠があると見ます。つまり、人間の親の立場にある愛なる神が、魅惑的で食べれば死ぬ危険性のあるような果実を、わざわざ目に触れるところに放置しておくなどということは考えられないからです。また、愛なる神が、人間が自分に従順に従うかどうかを見ようという目的だけで、死を招く可能性のあるような残酷な手段で試すということもありえません。事実においても、アダムとエバは木の実を「取って食べ」ましたが、それで死んだとは書かれていません。

 したがって、その「木の実」とは異常に刺激的で、神が警告した死の恐怖をもってしても、アダムとエバに食べるのを思いとどまらせることが難しいほど強い欲望をそそるもので、しかも神の創造目的の上から見て、どうしても取り除くことができないものであったに相違ありません。

 この「木の実」が何であるかを明らかにするためには、そもそも「善悪を知る木」とは何かを突き止める必要があります。この「善悪を知る木」は創世記にだけしか出てこないので、それが何かを突き止める手がかりがあまりありません。しかしそれと一緒に「はえさせられた」という「命の木」のほうは箴言(しんげん)やヨハネ黙示録にもたくさん出てきます。それを列挙すると、

 「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(創世記三・24)

 「知恵は、これを捕える者には命の木である」(箴言三・18)。

 「正しい者の結ぶ実は命の木である」(同一一・30)。

 「願いがかなうときは、命の木を得たようだ」(同一三・12)。

 「優しい舌は命の木である」(同一五・4)。

 「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」(黙示録二・7)。

 「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。……川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」(同二二・1〜2)。

 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(同二二・12〜14)。

 これらの記述から、箴言ではイスラエル民族の、黙示録ではキリスト教徒の最終、最大の願望は「命の木」に至ることだとされていることが分かります。特にヨハネ黙示録には、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕(しもべ)たちに示 すためキリストに与え、そして、キリストが、御使(みつかい)をつかわして、僕(しもべ)ヨハネに伝えられたものである」(同一・1)と最初に明記されているので、黙示録二十二章十二〜十三節の「わたし」とは明らかにイエス・キリストのことであることが分かります。そこからここで、「いのちの木にあずかる特権」というのは、再臨のキリストにあずかる特権という意味だと分かってきます。キリストはいうまでもなく男性なので、このことから「いのちの木」とは、堕落した人間の永遠の願望、すなわち、創造理想を完成した完全な男性を象徴するものだと分かります。もしそうだとすれば、これと並んではえていたという「善悪を知る木」とは女性を表すものだという結論となります。(なお「善悪を知る木」という名称は、女性の判断次第で善をもたらすことも、悪をもたらすこともできるということを表すと思われます。)

 もしそうだとすれば、「善悪を知る木から取って食べる」というのは、女性と性関係を結ぶということではないかと思われてきます。この解釈は、上記の「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記二・25)、善悪を知る木を食べた直後、「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(同三・7)という聖句ともつじつまが合います。

 事実、人間に与えられた第一祝福――個性完成をなしたと神が判断される前に性関係が結ばれてしまったらどうなるでしょうか。個性完成が不可能となると同時に、子供が生まれてしまい、その子供も台無しになってしまいます。そこで神は「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と厳しくこれを禁じたのだと統一原理は読み解くのです。逆にいえば、「善悪を知る木」から〝取って食べるな〟という神の戒めを守って完成し、祝福を受けて結婚すれば、それ以後は決して堕落するはずはなかったというのです。

 ここで重要な意味を持つようになるのが先述の責任分担ということです。神は人間を「神のかたち」(同一・27)としてご自身とそっくりに創造しようとされました。そのため、神が誰の手も借りずに独力で宇宙を創造されたように、人間も、与えられる神の言(ことば)を手が かりに、独力で神が自分に与えられた人間性や個性や使命を発見し、自分の自由意志で自発的、創造的に自己の個性を完成させる責任が与えられているというのです。といっても人間には、神と同等の能力はないので、神が九五パーセントの責任分担を負い、人間は五パーセントを果たせばよい。しかし、その五パーセントに関しては、神は全く干渉しないというのです。そのように神は人間に創造性と責任を与えてそれを完全に尊重されるのだと統一原理は解き明かします。個性完成して祝福を受けるまで性関係を持たないというのもこの五パーセントに属し、神は「取って食べれば死ぬ」と警告されるだけで、その神の言を現実に守るか否かは人間の自由意志にまかせたというのです。(続く)

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 次回は、第一部 第二章の「へびの正体」をお届けします。