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共産主義の新しいカタチ 9

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「良心の呵責」棄てる「獣性」
マルキ・ド・サド➁

「非情さ」逆手に良心の呵責捨てる
 ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』で、マルキ・ド・サドの記述を次のように紹介しています。

 サドの作品は、ニーチェのそれと同じく実践理性に対する仮借(かしゃく)のない批判を形づくっており、それに比べれば一切の破壊者[たるカント]自身の批判さえ、自己の思想を撤回するもののように見える。仮借ない批判は、科学的原理を破壊的な原理に高める。言うまでもなくカントは、『我が内なる道徳法則』を既に各種の他律的な信仰から純化してきたのだが、その勢いの赴く所、『尊敬』はカントの保証に反して、『我が内なる星空』が物理学的な自然事実となったと同様、単なる心理学的な自然事実になってしまった。カントはそれを自ら『理性の事実』と名付け、ライプニッツではそれは『社会の一般的本能』と呼ばれていた。しかし事実は、それが存在しないところでは妥当することもできない。

 サドは事実の現前を否定しはしない。二人姉妹のうち善い方のジュスティーヌは、道徳法則の殉教者である。ジュリエットは、もちろん市民層が避けようとした帰結を引き出す。後女は最新の神話としてのカトリシズムを、そしてそれと共に文明一般をデーモン化する。かつて秘蹟(ひせき)のために捧げられていた諸々のエネルギーは、そのまま向きを変えて聖物冒涜のために費やされるようになる。しかしこういう転換は、そのまま社会の上に移される。こういった全てにおいてジュリエットは、決してカトリシズムがインカ人たちに示したような狂信的な態度を取りはしない。彼女は、カトリックにとって古代以来血のうちに潜んでいる聖物冒涜(ぼうとく)の作業を、啓蒙された態度で熱心に片づけるだけである。文明によってタブー化された先史時代の行動方式は、獣性の烙印の下に破壊的な方式へと姿を変えて地下の存在を導いてきた。ジュリエットはそういう行動方式を、もはや自然的なものとしてではなく、タブー化されたものとして実行する。彼女はその方式に対する価値判断を、それと反対の価値判断によって埋め合わせる。彼女がそういう仕方で原始的な反応を繰り返すとすれば、それ故にそれはもう原始的なものではなく獣的なものである。(『啓蒙の弁証法』)

 ニーチェが「神は死んだ」と『ツァラトゥストラ』で唱えたのは有名ですが、サドはそれに先立ち、主人公ジュリエットに「死せる神ですって! カトリックの辞書に出てくるこういう自己撞着(どうちゃく)した言葉の組み合わせほど滑稽なものがまたとあるでしょうか。神とは即ち永遠の意味であり、死とは即ち永遠ならざるの意味ではありませんか。たわけたキリスト教徒たちよ。あなた方はいったいあなた方の死せる神をどうしようというのですか」と言わせたり、別の登場人物には「犯罪を犯すのに何か口実が必要だとでも言うのでしょうか」と言わせています。

「神の場所」に悪魔を座らせたサド
 カントの「道徳法則」に感情を介在させない非情性が、結果的にナチズムをしてユダヤ人のホロコーストを招いた、と意義づけようとしたのがホルクハイマーとアドルノの「ルサンチマン(怨恨)」だったのではないでしょうか。

 人間の行動を感情や性向よりも理性の支配に置こうとしたカントの「道徳観」を逆手に取り、サドは「神や死せる神の子への信仰、十戒の遵守、悪に対する善の優位、罪に対する救済の優位など、その合理性を証明できないものを崇拝することは、身の毛のよだつほど厭うべきこと」と捉えたのです(小牧治『ホルクハイマー・人と思想』)。

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 この態度が招来するものは、旧約聖書の「モーセの十戒」に「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」とある戒めは、サドにとっては単なるイデオロギーに過ぎないと、『啓蒙の弁証法』で断じているのです。

 先述した『孟子』の「惻隠(そくいん)の情」は、まさに「良心の呵責(かしゃく)」であることがわかります。カントは「情」ではなく「(実践)理性」に信頼を置こうとしましたが、「内なる道徳法則」とは実は「良心の呵責」に他なりません。「同情」は、サドとニーチェが最も嫌ったもので、犯罪を重ねて行き着く「良心の呵責からの自由」は恐るべき「荒漠たる獣的世界」と言えます。

 要するに、フランクフルト学派にとり「人間の倫理道徳観に影響を与える宗教」を打倒しようとしたサドを「ニーチェの先駆者」として祭り上げていることが分かるのです。

 この「サド賛美」は後に、フランスのミシェル・フーコーが『狂気の歴史』で「エピステーメー」(知の枠組み)における「近代の開拓者」と位置づけます。

▲ミシェル・フーコー(ウィキペディアより)

 「サドは単純に神を否定する無神論者ではない。……彼は表象の空間の自律性の前提となった不在の神、正確にはそのような神の場所を確保する。だが、それはその場所に悪魔を座らせるためである」とフーコー解説書で指摘されるのです(内田隆三『ミシェル・フーコー│主体の系譜学』)。

「思想新聞」202431日号より

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