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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(150)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十一、神を慰める者となりましょう

▲金元弼先生

尽くす者が主人となる

 昨年のことです。海に出て、魚釣りをしたことがありました。この魚釣りに関しては摂理的意義があったことは御存じのことですので話しませんが、ニューヨークの幹部たちを連れて出掛けられました。もう本当に元気な人でも、それが十日、二十日と何日も続きますと、先生が今釣っていらっしゃるのに、部屋の中に入ったり出たり、休んだりするのです。この船の中で誰が最後まで残るのだろうか、と心の中で思いながら、熱心に釣っていらっしゃいました。

 ところが、その連れ立った者は全員くたびれて、「海に行こう」と誘うと、「何か用事がある」と言って行かなかったり、行っても疲れて休んだりしているというのです。ずっと見つめていたら、船長がいました。その人だけがいつも同じ顔ぶれなのです。その人だけが残ったのです。そこで先生は岸に着きました。そうしたら彼は、まあこれで休むことになった、と気を楽にしたらしいのです。ところが先生は、陸に着いたらすぐにお食事を終わらせて、すぐまた船に帰っていきました。すると、さすがのその人も、本当に疲れたということで、もうよしましょう、ということになったというのです。

 先生は、そういった人々に比べると、年を取っていらっしゃいますが、若者がいくら力を尽くしても耐えきれないというその限界を超えるまでは、御自分からはやめられなかったというのです。

 そのように、私たちから考えてみたらくだらないことのように思うかもしれませんが、先生は釣りをするにしても、何をするにしても、すべてのことに対して心を尽くし、あるいは力を尽くされます。誰にも耐えることのできない心をもって尽くさなければならないと思われて、対していらっしゃるのです。

 先生は、すべての国にたくさんの宣教師を送って、命令だけをして黙っていらっしゃるのではありません。先生は、世界の人々が心を尽くす以上の高い次元で、休まず心を尽くしていらっしゃるのです。

 家庭では誰が主人になるかといいますと、主人は中心であり、親ですから、普通は親がなっています。しかし、もし子供の中で、他の兄弟よりも、親よりも家庭を大切にし、家庭のために尽くす子供がいるとすれば、その家庭の主人、その中心は、その子供になるのです。親がいても、親の責任を子供が果たし得るというのは、そのことを言うのです。幼い子供であっても、親がその家の中心になれずして、あるいは兄さんがなれずして、末っ子の弟がなることがいくらでもあるのです。

 同じように、み旨を知っている私たちは、教会長だから教会の主人であると言います。もちろん形状的にも性相的にも主人でしょう。しかし、もしその教会長が、中心でありながら、その教会を大事にすることができなかったとします。教会の人々も全部がそうであるとするならば、その教会の主人は誰がなるでしょうか。誰もなれません。その主人には、サタンがなるというのです。

 世の中でも、親兄弟がみんな家を大事にしないとしたら、他の人がその家を大事にします。下僕が大事にしたら、その家の主人は誰がなるのですか。下僕がその家の主人になるというのです。世の中には、そういうことがいくらでもあります。

 教会長であるからこそ、誰よりもその教会を愛さなければいけません。ところが、それをしなければ、その教会を支えるために教会長以上にその教会を愛し、大事にする兄弟がいるとするならば、その人によってその教会は支えられていくのです。

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 次回は、「神と共に苦しみを越える」をお届けします。


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