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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(147)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十一、神を慰める者となりましょう

▲金元弼先生

聖歌を愛する心情

 私たちは、いつも先生をお手本としています。あるいは夢の中において、あるいは他の形を通して、世界中の統一教会の兄弟が、いろいろ先生から教えていただいています。きょうは、私が先生から教えられたことを、皆様にお話ししたいと思います。

 日本の姉妹が聖歌の編集ということで、韓国へいろいろと聞きに来られましたが、聖歌には、先生が作られた歌もあり、我々が作った曲もたくさんあります。そして、聖歌を作ったのち、教会から一時離れている人もいます。

 私たちは、兄弟の中で何か良いことがあると、その人の良いこととして考えます。しかしその人の良いことが、私の良いこと以上の良いこととして、それを見守ってあげるのは、非常に難しいと思います。先生は、神との触れ合いで、いろいろと感激された喜びを、書き表されたり、作曲されたりすることがたくさんあります。先生御自身が作詞されなくても、作詞したその人以上に、また作曲したその人以上に、その曲を、その歌詞を、非常に愛されるのです。

 皆さんが一つの歌を作ったとしましょう。そうすると、作った人は非常に感激して作ったのですから、その歌を非常に愛します。自分が作った歌だから愛するのだろうと思います。ところが先生は、その歌を作った人がその歌を愛する以上に、その歌を愛されるというのです。これは簡単な話ですけれども、非常に意味深い話だと私は考えます。

 聖歌の歌を作って、また世の中に帰ってしまった人もいるでしょう。だからといって、この歌を作った人はこういう人であるから、その歌を私は絶対に歌う必要がないというのではありません。その歌を作った人がどういう人であってもかまわないのです。その歌が神の心を歌ったものであり、神の心情が描かれているとするならば私は歌う、それでいいのです。

 その人は、大変神の心情に触れて、その心情を描いたのです。先生は、その人が神の心情に触れた程度を数字で表すということは決してなさいませんが、その人が特別、自分の心を表現しようとしたのを、先生御自身が書く以上のものとして、これを受け入れるということなのです。

 私たちが神のための捧げ物を大事にしたいとするとき、天から見ればこれは非常に低いものですが、先生はそれを低いものとして見るのではなく、それをもっと高めて、そして神のものとして見つめてくださるのです。私たちは神のために、み旨のために働いたけれども、その実というものは、私たちから考えても、そう大きいものではありません。しかし、先生はそれを受け入れる時に、天の摂理路程において非常に大きな貢献をしたかのように、褒めたたえてくださることを、私たちはたびたび見ます。私が心を打たれたのは、そういうように、歌を作ったその人以上に、もっとその歌を愛されたことでした。

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 次回は、「愛する人が主人に」をお届けします。


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