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フランシスコ・ザビエル(上)

(光言社『中和新聞』vol.492[1998年7月15日号]「日本17宗教人の横顔」より)

 『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。

司教の道捨てロヨラのもとへ
43歳で日本宣教を始める

 貴族の子として生まれながら、キリストへの信仰と伝道に生涯をささげ、日本にも渡来して、わが国に初めてキリスト教を伝えた人、フランシスコ・ザビエルは1506年、スペインとフランスの国境、ナバールという小さな王国に生まれた。今でも、ナバールにはザビエル城という城があるが、この城主の6番目の末っ子として生まれたのだった。父親は法学博士で、ナバール王に仕えて信任あつく、まもなく大蔵大臣になり、ついには政治の最高責任者になったほどの人だった。

▲フランシスコ・ザビエル(ウィキペディアより)

 母親はたいへん家柄がよく、ザビエル城という城は、母親がお嫁入りした時の贈り物だった。両親とも熱心なカトリックの信者だったので、ザビエルは生まれた時から宗教的な雰囲気の中で育った。

 ザビエルは心がやさしく礼儀正しく朗らかで、向学心が強く理想の貴人になるために努力を惜しまなかった。また純潔を尊び、つつましさと潔癖さを持ち合わせていた。

 1512年、フランスとスペインとの間に戦争が始まり、ナバール国は戦乱の嵐に包まれた。平和が回復したのは1524年のことだったが、この間父親が亡くなり、ザビエルは信仰深い叔父の影響もあって、翌25年(19歳)、勉学のため花の都パリへ向かった。

 パリのセント・バルバラ学院に留学して4年目に、息子への大きな期待を胸に秘めたまま母親がこの世を去った。失意のこのころ、ひとりの年取った学生が、よその大学から転学してきて、ザビエルと同じ寄宿舎で生活するようになった。この男こそ、のちにイエズス会をつくり、厳しい掟(おきて)のもとにカトリックの勢力の回復をはかったイグナチウス・ロヨラだった。

 ザビエルは24歳で哲学科を卒業し、引き続いて神学の研究を始めた。故郷に帰れば、司教になれる道が十分にあったのだが、ロヨラを「イエス・キリストにおける霊魂の父」と仰いでいたザビエルは、ロヨラの指導のもとに、キリストの下僕(しもべ)として一生を送る決心をしていた。

 このころ、西ヨーロッパには、ルターやカルビンなどが宗教改革を推し進めていた。この新しい運動—プロテスタント(新教)—に刺激されて、カトリック側も「信仰心を回復しよう。乱れた規律を引き締めよう」との反省に立ち、ロヨラが中心になって「イエズス会」を結成した。もちろんザビエルもこれに加わった。

 イエズス会のメンバーは5人。彼らは、神の教えのとおりに規律に従いながら伝道に励むとともに病人や囚人を訪問、また児童の教育に献身的な努力を示した。その後、メンバーも12人になり、このグループの熱心な働きが広く認められるようになってきたころ、インドへの布教をローマ教皇から申し渡された。

 ポルトガル王は国家の政策として、貿易と宗教とを同時に推し進め、カトリック側も、プロテスタントのためヨーロッパで失った教会の勢力を、東洋の新天地で取り戻そうと考えていたからである。ロヨラによって選び出されたザビエルは、154147日、35歳の誕生日に、6隻からなる艦隊とともにリスボンの港を出発した。

 ザビエルの乗った船が長い航海の果てにインドのゴアに着いたのは翌年1542年の56日。ザビエルはキリストの教えをその土地の言葉にやさしく翻訳して、住民たちが理解するまで何度も熱心に、誠意を尽くして説明した。ただひたすら神の愛を説き、みずから神の愛を実践していった。ザビエルの不死身の伝道が実を結び、数万人の信者を導くことができたが、やがて彼は日本へ行くことを志す。

 4か月の苦難の渡航に耐えながら、ついに1549年の815日、一行7人は鹿児島の田子之浦海岸に錨(いかり)を下ろすことができた。ザビエルが43歳の時である。

(続く)

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 次回は、「フランシスコ・ザビエル(下)」をお届けします。