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日本人のこころ 81
陳舜臣『阿片戦争』『曼荼羅の人』

(APTF『真の家庭』302号[202312月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

日本近代化の他山の石
 1924年、神戸市に生まれた直木賞作家・陳舜臣(ちん・しゅんしん)の両親は日本統治下の台湾籍の中国人で貿易商をしていました。父祖の地は福建省で、戦前、一家は神戸に移住し、陳の本籍は台湾台北でしたが、1973年に中華人民共和国の国籍を取得し、89年の天安門事件への批判を機に、90年に日本国籍を取得します。

 1941年に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)印度語学科に入り、印度語(ヒンディー語)とペルシア語を専攻し、一学年下の司馬遼太郎(蒙古語科)と親交を結びました。

 少年時代は江戸川乱歩に親しみ、大学時代はコナン・ドイルなどを乱読し、卒業後は、同校附設の西南亜細亜語研究所の助手としてインド語辞典の編纂作業などに従事します。終戦で日本国籍を喪失し、退職した陳は家業の貿易業に従事、台北の中学での英語教師などを経て神戸に戻り、貿易業をしながら推理小説を書くようになります。

 44歳で中国を舞台にした小説『青玉獅子香炉(せいぎょくししこうろ)』で直木賞を受賞した陳は、以後、歴史小説を手掛け、代表作に『枯草の根』『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』などがあります。

 1996年に芸術院会員となり、98年には日中文化交流の尽力により勲三等瑞宝章を授与され、2014年、神戸市に「陳舜臣アジア文藝館」が開設された翌年、90歳で亡くなります。現在、文藝館は閉鎖されています。

 『阿片戦争』の主人公はアモイの豪商・連維材で架空の人物、財力を使って清の近代化を進めようとします。もう一人の主人公は実在の官僚で政治家の林則徐。林の指揮でイギリス船が積んできたアヘンを焼き払ったのが戦争のきっかけとなります。

 同作の解説で歴史家の奈良本辰也は「『阿片戦争』の主役は阿片戦争そのものなのだ。この作品の場合、どの人物をとりあげてみても、この小説の主役とは言いがたいのだ。林則徐にして然り。作者が作中もっとも重要な役割をふりあてている連維材という人物も、時代を象徴する英雄としては描かれていないのである。氏にとって阿片戦争は事件ではない、時代そのものなのだ」と書いています。

 阿片戦争は1840年から2年間続いた清とイギリスの戦争で、アジアの大国清がイギリスの艦隊に敗れたことは日本にも伝わり、列強侵略の危機感が高まり、倒幕運動の大きな要因となりました。

 産業革命により生産力を増大させたイギリスは市場を求めアジアに進出しますが、当時の清は朝貢貿易のみを認め、イギリスの製品はそれほど必要としていませんでした。そこでイギリスは、インドで製造したアヘンを清に輸出するようになり、巨額の利益を得ていたのです。

 国民に中毒が蔓延したことから清は法律でアヘン販売を禁止し、全面禁輸を断行、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分します。これに反発し、軍艦を派遣したイギリスとの間で戦争が始まり、近代兵力に勝るイギリスが勝利し、1842年の南京条約で清はイギリスに香港を割譲したのです。

 今の価値観ではイギリスが悪いのですが、帝国主義時代の当時はそれが常識でした。その後、清も近代化を模索しますが、満族という少数民族の支配から脱却できず、1911年の辛亥革命で清王朝は滅びます。多民族国家の大国だったので、日本のように小回りが利かなかったのが清の近代化を失敗させたとも言えます。日本にとっては他山の石となりました。

密教を超える
 親友の司馬遼太郎の『空海の風景』が空海の一生をたどる歴史紀行のような小説なのに対して、陳の『曼荼羅の人』は、空海が唐に滞在した2年間の出来事を、フィクションを交えリアルに描いています。

▲『曼荼羅の人』(集英社文庫)

 両書に共通しているのは、空海は日本にいる間にほぼ密教と中国語はマスターし、密教の正統な継承者としての灌頂(かんじょう)を受け、経典や法具を持ち帰るために唐に渡ったという説で、それは史実に近いとされています。そのため、本来なら20年滞在しなければいけないのを2年で帰国し、20年分の費用を経典の筆写や曼荼羅の製作などに投じたのです。それでも足りない灌頂の儀式に多くの支持者から布施が寄せられたのも、空海の並外れた実力と人間的魅力をうかがわせます。

 当時の長安は世界一の国際都市で、交易を通じてキリスト教やイスラム教、ゾロアスター教などアジアの宗教が集まっていました。密教そのものが大乗仏教の最後に現れ、インド古来のバラモン教やヒンズー教を取り込んだ宗教ですが、空海が目指したのは密教を超えた地球規模の普遍宗教で、そのため中国の道教や儒教をはじめ渡来の宗教を訪ね、学び、吸収していく様子が、小説には面白く描かれています。

 空海の興味は宗教に留まらず、医療や土木建築、教育などにも広がり、それが帰国後の満濃池の修築や、民衆にも開かれた学校・綜芸種智院の創設などにつながります。また、当時の密教は皇帝の政治を呪術で支える役割を果たしていたことから、空海は唐の政治にも詳しくなり、そこから帰国後の政治的振る舞いを考えるようになります。それが、都の東寺と、修行の場としての高野山に結実したのです。

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