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ダーウィニズムを超えて 35

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第三章 ドーキンスの進化論と統一思想の新創造論

(五)ミームとは何か

 ダーウィニズムによれば、原始のスープの中で遺伝子が誕生し、生物の進化が始まり、ついには我々人間が誕生したのである。ドーキンスはさらに、人間の脳の中で、新しいスープが登場し、その中で自己複製能力のあるミームが発生したという。そして遺伝子が体を乗り物として繁殖したように、ミームも脳を乗り物(ヴィークル)として繁殖していくと言う。ドーキンスは次のように言う。

 遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するに際して、精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミームプール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである(*48)。

 ドーキンスによれば、ミームとは、コンピューター・ウイルスのように、人間の心から心へと飛び移っていく心の中のウイルスであり、「われわれの心はミームによって侵略されているのだ。鏡の国のアリスのチェシャ猫のように、ミームはわれわれの心に出没し、われわれの心自体になることさえある(*49)」のである。ミームの中でも、世界中に広がっているのは「死後の生命への信仰」というミームと「神」というミームである。「神」というミームが根強く生存しているのは、それがもつ強力な心理的魅力によるものであると、ドーキンスは言う。

 実存をめぐる深遠で心を悩ますもろもろの疑問に、それ[神のミーム]は表面的にはもっともらしい解答を与えてくれるのである。現世の不公正は来世において正されるとそれは主張する。われわれの不完全さに対しては、「神の御手」が救いを差しのべてくださるという。医師の用いる偽薬(プラセボ)と同様で、こんなものでも空想的な人々には効き目があるのだ。これらは、世代から世代へと、人々の脳がかくも容易に神の観念をコピーしてゆく理由の一部である。人間の文化が作り出す環境中では、たとえ高い生存価、あるいは感染力をもったミームという形だけにせよ、神は実在するのである(*50)。

 ドーキンスによれば、ミームは実体のないものでなく、「原理的にはシナプス構造の明確に決まったパターンとして顕微鏡下で見ることができる(*51)」のであり、ミームは「脳のなかに物理的に定住するもの」である。そしてミームにも、遺伝子と同様に表現型があると言う。

 ミームの表現型効果は、言語、音楽、視覚イメージ、服装のスタイル、顔や手のジェスチュア、さらにはシジュウカラの牛乳瓶の蓋開けとかニホンザルの小麦洗いのような技術のかたちをとって表われるだろう。それらは脳にあるミームが外側に向けて、視覚的に(あるいは聴覚的に等々)表出したものである。それらは他個体の感覚器官に受容され、それを受けた個体の脳に自らを刷り込む、つまりもとのミームのコピー(正確である必要はない)がそれを受けた脳のなかに刻みこまれることになる(*52)。

 統一思想から言えば、ドーキンスのミームとは、心の中の観念や概念に相当するものであろう。ミームがどんどん頭の中で繁殖していくというドーキンスの主張は、観念と観念が矛盾を通じてひとりでに発展していくというヘーゲルの弁証法をほうふつさせる。しかし、観念や概念がひとりでに繁殖したり、伝播(でんぱ)するわけはない。

 心の中には統一体としての知情意の統覚がなくてはならず、その中心となっているのが心情である。心情を中心として、知情意の統覚の作用のもとで、思考(構想、シナリオ、デザイン等)が形成されるのである。観念や概念は思考のための材料である。したがって、観念や概念は心の中で、知情意の統覚によって、生まれたり、組み合わせられて発展していくものであって、観念や概念がひとりでに発展することはありえない。

 ドーキンスは神を信じる観念をミームであると言う。そうであれば、「神を否定する観念」もミームであり、ドーキンスの頭の中にそのミームが巣くっており、彼は猛烈な勢いで、そのミームを伝染させようとしていると言えるのではなかろうか。

 ドーキンスは、ミームは脳のなかに物理的に定住するものであり、顕微鏡下で見ることができるという。しかし、物理的な存在である遺伝子とは異なり、観念や概念を物理的に検知することはできない。観念や概念は脳に存在するのではなく、霊人体の心の中に存在するものだからである。心と脳の相互作用を通じて、われわれは観念や概念を認識する。その時、脳には電流とか化学物質の流れ等の物理的な作用が現れるが、観念や概念それ自体が物理的に検出されることはありえないのである。

 ドーキンスは、人間は遺伝子機械であるように、ミーム機械でもあると言いながら、一方で、「われわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる(*53)」と言う。

 ミームに支配されているミーム機械である人間が、いかにしてミームに反逆しうるというのであろうか。これは、人間の心は本来ジャングルの猛獣のようなイド(エス)であるが、イドからジャングルの開拓地のようなエゴ(自我)が生じてくるのであり、そのエゴでイドを抑圧せよというフロイトの理論と同じである。では、なぜ人間の心にエゴが生じ、動物には生じないのであろうか。動物には霊がないのでエゴは生ぜず、人間には霊があるので、生心としてエゴがあるのである。それと同様に、ミーム機械であるという人間が、ミームを克服するようになるというのは論理の飛躍である。知情意の霊的統覚をもつ霊人体があればこそ、ミーム(観念や概念)をコントロールできるのである。


*48 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年、297頁。
*49 リチャード・ドーキンス、福岡伸一訳『虹の解体』早川書房、2001年、403頁。
*50 リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』298頁。
*51 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『延長された表現型』紀伊国屋書店、1987年、212頁。
*52 同上、213頁。
*53 リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』311

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 次回は、「自然選択は『不可能の山を登る』ことができるのか」をお届けします。


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