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脱会説得の宗教的背景 15
「史的イエス」の問題を克服した統一原理

教理研究院院長
太田 朝久

 YouTubeチャンネル「我々の視点」で公開中のシリーズ、「脱会説得の宗教的背景/世界平和を構築する『統一原理』~比較宗教の観点から~」のテキスト版を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
 講師は、世界平和統一家庭連合教理研究院院長の太田朝久(ともひさ)氏です。動画版も併せてご活用ください。

「統一原理」による「新約聖書学」へのアプローチ
 では、現代のキリスト教が抱える「史的イエス」の問題を、「統一原理」はどう克服し、整理しているのでしょうか。
 「統一原理」は、神の復帰摂理を“人類一家族の理想世界(神の国)実現”と考え、そこに「人間の責任分担」が果たされる必要性を説きます。

 イエスの本来の使命は、十字架ではなく「神の国」を実現することでしたが、当時のユダヤ教の不信によって十字架にかかり、“霊的救い”をもたらしたとします。
 福音書は、十字架贖罪(しょくざい)の観点から福音書記者が編さんしたもので、十字架は最初からの予定ではなかったと主張します。これは聖書批評学の主張の正しさを支持します。

 それでは、十字架は“神の予定ではなかったのか”と言えば、“十字架は神の二次的予定であった”と主張します。
 イエスはユダヤ教の不信によって、“再臨摂理のために”そのように行動し、ゲツセマネの祈りも、十字架に向かうためのプロセス(過程)だというのです。
 当時のユダヤ教の不信故に、イエスは自ら進んで十字架にかかったということです。

 「統一原理」は、聖書批評学を支持しつつも、同時に“霊感説”も弁護するのです。
 統一原理は、「リベラル」と「福音派」を和合統一します。現代のキリスト教の現状を、救い得る観点を持っているのです。

聖書批評学の登場は“神の摂理”だった
 19世紀以降、聖書批評学が急速度に進展しました。実は、この学問が現れたのは、再臨主を迎える準備だったといえます。
 なぜなら、キリスト教は“十字架”を信じるところに唯一の信仰基準を置くため、再臨主が“十字架は本来の神の願いではなかった”と真実を語ったなら、再臨主は“サタン視”され、排斥されるに違いありません。

 神はその危険性を緩和させるために、再臨期が近づいた19世紀を前後して「聖書批評学」を興し、再臨主が解き明かす“新しい真理(統一原理)”が介入できる余地を準備したといえます。
 「聖書批評学」の登場は、むしろ神の摂理だと言い得るのです(参考:『統一教会の正統性』151153ページ)。

 神の摂理は、神のみ旨が実現するまで、過去の失敗を清算しながら繰り返されます。それが「歴史の同時性」となるのです。
 故に「イエスの生涯」を記録した福音書と、現在の「文鮮明(ムン・ソンミョン)師が歩まれた生涯」を比較すれば、福音書の正しさが分析できるのです。

 聖書を研究すると、2000年前にイエスが歩まれた生涯と、現代、文師が歩まれた路程が二重写しになって見えます(参照:『統一教会の正統性』)。
 文師がキリスト教から迫害されて生じた路程の“原型”が、すでに福音書に“イエスの受難”として記述されていたのです。
 これによって、福音書の「イエスの生涯」が“史的根拠”を持っていることが提示できるのです。

 ヤコブからイエスまでの2000年のイスラエル史と、イエスから再臨主までの2000年のキリスト教史が、“同じありさま”で繰り返されました。
 これこそが、イエスの十字架は神の本来の願いではなかったという明確な答えとなっているのです。

※動画版「脱会説得の宗教的背景 第4回『リベラル』と『福音派』との和合(新約聖書学)」はこちらから