信仰と「哲学」7
「哲学」の始まり~統一原理が分からない。しかし・・・

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 共産主義運動から一時期引いて、自分自身を見つめ直そうとしていた時のことです。
 昼休みの時間でした。寝そべっていた校庭の芝生の広場で、一人の男性が黒板を持ち出して講義を始めたのです。その内容は、共産主義批判でした。

 特に朝鮮戦争は北朝鮮人民軍による軍事侵略であったと熱弁を振るっていました。当時は韓国が軍事行動を起こして始まったとの見解もあり、北朝鮮による侵略であるなどと、人前で、それも大声で主張する人はいませんでした。まさに狂った人が、ある意味では勇気ある人が目の前にいたのです。特に心が動かされるというようなことはありませんでした。ただ、「変な人(Iさん)がいるものだ」との印象でした。

 ところが数日後の夜、その変な人が訪ねてきたのです。といっても、私が下宿していた部屋を訪ねてきたのですが、本当は私を訪ねてきたのではなく、隣のKさん(同じ大学生)が目当てでした。あいにくKさんが留守だったため、私の部屋に入って来たのです。私も暇でしたので、話を聞くことになったのです。

 Iさんは、私が共産主義の運動をやっているのを知っていたと思います。彼は「新しい学生運動を起こしたいと思う」と切り出しました。そして「基本的な考え方になるものを伝える修練会があるので、参加してみないか」というのです。参加費のことは覚えていません。

 いろいろ話す中で、私がギターを趣味でやっていることを知ると、修練会が終わってみんなで歌を歌ったりする時があるので、ぜひギターを弾いて聞かせてほしいとも言われました。少し心が動きましたが、とにかくIさんは「強引な感じの人」で、参加すると言わなければ朝まで説得されそうだと思いました。

 特別何かを期待をしたわけではありません。簡単に言えば、暇だったしギターも聞いてもらえるし、というような気持ちで、三日間の修練会に参加することになったのです。場所は、「統一教会」でした。誘った人は原理研究会の責任者でした。

 修練会の参加者は三人でした。講義を担当するKさんは断食中でした。それも12日間の。講義は黒板講義で、内容は「統一原理」。神の存在が大前提でした。

 三日間の修練会が終わりました。講義は本当に熱のこもったものでした。しかし私にとって心に響くものは全くなかったのです。修練会の閉会式の時、修練生の一人一人が感想を述べることになるのですが、私の感想を聞いて、みんながっかりしたことと思います。

 しかし、一つだけ私にとって確かなことがありました。それは共産主義の同志より、ここにいる統一教会の人たちの方が、きっと良い社会をつくるに違いないという直感でした。この思いが、私が統一原理から離れなかった、たった一つの「理由」だったのです。(続く)