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【テキスト版】
ほぼ5分でわかる人生相談Q&A
幸せな人生の極意!

第161回 マルクスの生い立ちと思想形成の背景を教えてください②

ナビゲーター:阿部美樹

(動画版『ほぼ5分でわかる人生相談Q&A』より)

 皆さん、こんにちは!

 今回は、「マルクスの生い立ちと思想形成までの背景を教えてください」という質問に対しての2回目です。

 共産主義の思想を理解するために、マルクスの青年期の思想の変遷を3段階で紹介します。

 第1段階の思想的変遷は、1841年の23歳ごろです。

 マルクスはベルリン大学でヘーゲル哲学を学びましたが、ヘーゲル学派は保守的な右派と、マルクスをはじめとする改革的な左派に分かれていました。

 ヘーゲル左派は、唯物論の立場から、物質的な矛盾を通じて社会は発展しているが、その都度、矛盾を解決していくことによって、次第に理想国家になると主張します。

 ボン大学で大学教授になることを期待していましたが、保守系の教授が立つことによって、教授になる道が閉ざされました。

 マルクスは憤まんやるかたない思いの中、言論人(ジャーナリスト)の道を選ぶようになります。

 このようにマルクスは、ヘーゲル哲学によって矛盾のない自由な理想社会を実現しようと考えましたが、大学教授の道に挫折し、言論の力で政府の誤りを正すことで自由の実現を目指しました。

 第2段階の思想の変遷は、1843年、25歳ごろです。

 マルクスは1842年から「ライン新聞」に寄稿を始め、才能が認められて編集長に抜てきされました。

 言論の力で政府の誤りを正しながら、社会を変革し、ヘーゲル哲学の理念である自由の実現を達成しようと考えました。

 しかし、1843年、プロシア政府はライン新聞を反体制の危険な新聞と見なして発行禁止にしました。マルクスは怒りを感じながら、フリーの思想家としての市民運動を展開しました。

 その頃、マルクスは母と姉の反対を押し切って、ドイツの貴族の娘イェニーと結婚しました。
 母はマルクスへの遺産相続を拒絶しましたが、そこからマルクスの私有財産への反感も生じることとなりました。

 このように、フリーの思想家として、政府・官僚に期待することができないと結論を下し、市民運動の立場から市民に期待をかけるようになりました。

 第3段階の思想の変遷は、1845年、27歳ごろです。

 マルクスはパリで初期の社会主義、共産主義思想に触れました。

 フランスでは、市民にも支配している資本家階級と支配されている労働者階級がいることが明確になり、労働者階級による人間の解放を目指すようになりました。

 マルクスは『独仏年誌(どくふつねんし)』を発刊したり、ドイツ語新聞やニューヨーク・トリビューンなどに寄稿したりしていました。

 ところが、プロシア政府の圧力を受けたフランス政府により、パリからの強制退去命令を受けて、18452月、マルクスはブリュッセルに亡命しました。

 力づくで追い出され、言論による収入の道が閉ざされ、経済的にも追い詰められました。
 このような経緯でマルクスの怒りは爆発することになり、マルクスは過激な思想家、革命家に変貌していったのです。

 人間解放という初期の目標は、どこかに行ってしまい、「暴力革命」による権力の奪取が目標になったのです。

 このように、マルクスは人間の解放を目指しましたが、現在の共産主義社会を見ても分かるように、人間性は甚だしく蹂躙(じゅうりん)されています。

 階級のない社会を目指しながら、共産党という新しい支配階級が人民を暴力的に支配する階級社会になりました。

 今回は、マルクスの3段階にわたる思想変遷を通して暴力革命に至った経緯を紹介しました。

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