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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(123)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ

▲金元弼先生

許しは神の心情から

 先生は、他人を苦しめる人に対して、今お話ししたように、原理がこうであるから、こうしてはいけないとは忠告されません。こういった人のために、いかばかり神は苦しまれたことだろうかと、神の心情をお慰めになるのです。そして神の心をこれ以上苦しめないためには、私が神の身代わりになって、こういう人たちを見守ってあげなければいけないと考えて忠告するのです。先生は私たちに対して、ある時には命令したり、あるいは忠告したり、お話しされたりします。けれども、私たちとは、全然その内容が違います。次元が違うのです。先生は、そういう立場でお話ししていらっしゃるのです。

 ところが、私たちは、そうではないのです。そんなことよりも、あの人は悪いんだ、教えてあげなければ、忠告してあげなければいけない、そういうことばかりやっています。解決するためには、自分を中心としてはいけないのです。先生は、神がこうであるからということによって、初めて解決されるのです。

 兄弟たちが私に良くしないとき、これからはどう考えなければいけないでしょうか。自分を苦しめる人を、その人と考えず、自分と考え、苦しめられる自分を自分と考えず、神様、先生であると考えるのです。苦しめる人に対して、まず感謝の心をもち、神の心を、そして先生の心情を慰めなければならないのです。

 ですから、自分の心が痛いことは言わないのです。このように皆がなれば、私たちの世界は、今とは次元の違ったものに向かっていくのではないかと思います。人に苦しめられた時、ただそれを忍ぶものだと考えても、それはなかなか実行、実践できないものです。悪口を言われても忍ぶものだ、愛するものだ、許すものだといっても、ただ許すという心は起こってきません。

 より高い心情をもたないと、許すことはできません。高い心情とは、神の心情、親の心情なのです。ですから神の心情、親の心情を所有しない限りは、兄弟を許したり、愛したりすることはできません。

 人間同士の愛は、同じ愛の量をもっているので、与えれば自分の分は少なくなるから、あげることはできません。愛するためには、より以上の愛をもたなければいけません。より以上の愛というのは、人間の親に当たる神の愛です。無限なる神の愛ですから、愛をたくさん受けることによって、愛を与えることができるというのです。神の愛ではなく、自分の愛ならば、私の愛の量はなくなってしまいます。

 この世の兄弟関係でも同じです。兄と弟がいて、その仲が悪い時には、兄弟同士では仲良くなることはできません。同じ次元ですから、人間同士では和解できないのです。神が仲介しなければ、人間の和合というものはあり得ません。人間はもともと、神を中心として始まっています。ですから中心たる神を除いて、人間同士の平和というものは絶対にあり得ません。

 ですから、共産主義の理想は実現不可能だというのです。神を中心としてこそ、初めて、人間の和合、人間の平和があるのです。

 例を一つ挙げてみましょう。今も話したように、兄弟ではなかなか仲直りができません。同じ立場ですから。ところが私たちが仲良くしなければ、親が心配するだろうと思う時、より高い親の心によって初めて、兄弟の和解、和合があり得るのです。けんかして、何年たっても和解できないとします。自分たちは和解できなくてもいいのです。けれども、こういうことによって親が心配するから、親を心配させないために、ということで親の心、親が仲介になって初めて、お互いに譲り合うことができるのです。

 誰がそれを始めるかといえば、先に親の心情を受け継いだ者が動機になれるのです。ですから、兄弟の仲直りも、一番大きいお兄さんからするのです。一番上のお兄さんは親の心情を受け継いでいるのです。長男は親の身代わりです。ですから、相続権が次男よりも長男にあります。親の心情を受け継いだ者だというのです。次元の高い心情をもつことによって、初めて和解があり得るのです。また、愛することもできるのです。

 ですから、皆さんは永遠なる神の愛を受けずしては、人を愛することや、兄弟を愛することは、絶対にできません。そういう心情を受け継ぐことによって、仲直りもできるのです。

 そういうことですので、問題の発見者は自分であっても、その解決は自分ではなく、必ずそこに先生、神がいなければいけないのです。

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 次回は、「現実問題のとらえ方」をお届けします。


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