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シリーズ・「宗教」を読み解く 283
キリスト教と日本 62
愛の殉教者、コルベ神父

ナビゲーター:石丸 志信

 長崎に縁のある聖人に、「アウシュビッツの聖者」と呼ばれるポーランド人司祭、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父がいる。
 彼は、13歳の時に司祭になることを志し、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学し、勉学と修養に励んだ。この間に神の召命を真摯(しんし)に受け止め、3年後には修道会に正式に受け入れられ修道士としての修練が始まった。

 1912年から1919年までローマに留学。そこで哲学、神学を修めた。19184月には晴れて司祭に叙階された。
 以後、アッシジの聖フランシスコの精神で布教、教育、奉仕の生活に身を投じていく。

 彼の修道司祭としての生活を支えたのは、聖母マリアへの熱い崇敬の心だった。
 有志らと共に「聖母の騎士会」をつくり、出版物を通した布教活動を展開するため雑誌『聖母の騎士』を発行し続けた。

▲コルベ神父

 東洋の宣教を志したコルベ神父は、当時ローマに留学していた里脇浅次郎神学生(後の枢機卿)の口添えで長崎に拠点を構えることにした。
 彼は19304月、ゼノ修道士とヒラリオ修道士を伴って来日。長崎に修道院を立て、日本語版の『聖母の騎士』誌を発行して布教に務めた。
 6年後に、ポーランドのニエポカラノフ修道院の院長に任命されたのでコルベ神父は帰国したが、ゼノ修道士らはそのまま日本に残った。

 コルベ神父は、ポーランドでも精力的に出版・布教活動、社会事業に取り組んでいったが、ドイツ軍のポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。修道院は接収され、修道士らは逮捕され収容所に送られた。
 3カ月後にいったん釈放されたが、19412月にナチス・ドイツによって再び逮捕され、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。

 その年の7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになった。
 囚人番号を呼ばれた一人が、「私には妻子がいる」と泣き叫び始めた。そこで、コルベ神父は彼の身代わりになることを申し入れ、聞き入れられた。

 コルベ神父は他の9人と共に地下牢の餓死室に押し込められた。普通ならば飢えと渇きで錯乱状態になって死んでいくのだが、コルベ神父は囚人たちを励まし、祈りと賛美をささげて最後の時を過ごした。
 2週間後もまだ息のあったコルベ神父は引き出され、フェノール注射を打たれ殺害された。1941814日の夜だった。

 カトリック教会は、彼の死を殉教と認め、19821010日、同じポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世により聖人に列せられた。

▲大浦天主堂(長崎市)へ登る坂道の途中、右側の路地に「聖コルベ館」がある



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