コラム・週刊Blessed Life 28
人間よ、神に帰れ!

新海 一朗(コラムニスト)

 世界の混乱を見れば見るほど、「そもそも、人間とは何ぞや」という疑問を抱かざるを得ません。と言うのは、世界中のあらゆる混乱と対立は人間自身がつくり出しているからです。

 人間に対する手っ取り早い解釈は、人間はサルから進化した存在であるというものです。それゆえ、人間はその出発点からして、そんなに高貴な存在ではないという話になってしまうのです(だから、世界の混乱もやむを得ない)。

 そうでしょうか。

 進化論の主張によれば、①相同器官、②痕跡器官、③発生反復説、の三つを挙げて、進化の証拠としています。先祖においては、基本構造が同じ器官であったもの、進化の過程で変化したものを相同器官と呼びますが、この相同器官こそが進化の証拠であると言います。しかし、相同器官は進化の証拠ではなく、「相似性による創造」を示すものです。鳥の翼が人の手に進化したのではなく、人の手をモデルとして動物の前足や鳥の翼が構想されたのです。

 進化論では、祖先の時代に働いていた器官が、進化の過程で働きを失い、退化した器官を痕跡器官といって、退化も進化の一つのプロセスであると見ています。

 進化論者は、人間の耳に「動耳かく筋」があるのは、昔、ウサギのように耳を動かしていた名残だと言いますが。そうではなく、人間の体は万物(動植物)の総合実体相であって、全ての動植物の要素を総合し、縮小した形を持っているのです。従って、神は、人間の耳を拡大し、変形して、ウサギの耳を構想されたのです。

 脊椎動物の胚を比較すると、発生初期はどれもよく似ていて、心臓も一心房一心室の時期を経過します。

 進化論者はこれを、動物は個体発生の過程において、進化の道筋をたどりながら、過去から現在までの過程を再現しているのだと主張します。しかし、そうではありません。動物の胚の成長のプロセスも、人間の胚の成長のプロセスをモデルにして考えられたものです。個体発生(胚の成長)は、人間を中心とした「神による相似性の創造」を示すものなのです。

 動植物の創造に際し、最終モデルとしての人間から「捨象」と「変形」をデザインしながら、神は「相似性の法則」を適用されたのです。

 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書 第548節)というイエスの言葉にあるように、神の尊貴性を100%宿しているのが人間です。単なる動物の延長ではありません。

 人間は神に帰らなければならないのです。