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愛の勝利者ヤコブ 38

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

大脱走

 レアがまず口火を切った。

 「あなたがこの6年を身を粉にして働かれ、父の子たちよりも多くの家畜を所有するようになったことを、父は今でさえねたんでいます。あなたがこれ以上この地に留まって働いても、稼げば稼ぐほど憎まれ、うとんじられるだけで何の得るところもありません。

 また、あなたは父の家のものではありませんから、家の財産(*11)を受け継ぐ資格も得られないでしょう。大体、あなたがあれほど父に尽くしてくださっているのに、わたしたち一家は父からまるで他人のように思われているではありませんか。父はわたしたちを14年の労役と引き換えに売ったばかりでなく、わたしたちが稼いだ金まで勝手に使い果たしてしまいました……」

 これが実の親に対して言う言葉かとあきれ返るほど、レアの積もり積もったうっぷんはいつ果てるとも知れない憤り、ぐちとして噴出し続ける。

 「自分の娘を売ったなどと言うのは、ちょっと口が過ぎはせんか。

 あれはわたしのほうから望んでしたことだ。嫁に欲しいと思ってあらん限りの力を振りしぼったことは事実だが、それを代償として家畜か奴隷のように買い取ったなどとは、わたしは夢にも思ってはおらんよ」

 あまりの剣幕に、ヤコブはかえってたしなめる側に立たなければならないほどだった。

 「ラケルはそうでしょうよ、でもわたしは……」

 レアは露骨にすねてみせた。

 「ばかもの」

 ヤコブは思わずレアの頬(ほお)を平手打ちにした。しばらく込み上げてくる複雑な思いを押し殺すために沈黙したあと、ヤコブは努めて冷静にあとの言葉を続けた。

 「正直のところ、最初は義理でお前と対していたかもしれない。しかしもうお前はわたしの子を7人も生んだ子持ちではないか。今は真実お前を愛しているのだよ」

 「妻は憎くとも子はかわいいものだと、知り合いのだれぞやも申しておりましたっけ」

 ヤコブがもう一度手を振りあげかけるのを見て、レアは慌てて言った。

 「おほほ、冗談ですよ。あなたの情の深いのは身にしみて感謝しております。こういう嫌味を言うのも、あなたを信じておればこそではございませんか。

 でも、言っていいことと悪いこととがございますわね。申し訳ございません。二度とこんなつまらないことは申しません」

 「わたしは私怨(しえん)でこんなことを言っているのではない。わたしたちは神のお使いを務める選民の祖となるよう、神から召された者なのだ。そういう自覚をはっきり持っているかどうか、それを問題にしているのだ」

 ベテルで神からの祝福を受けて以来、片時も神のことを忘れず、神の立場に立って公的にしかものを考えたり感じたりしないヤコブの心構えに打たれ、厳粛な気持ちとなって、レアは口を閉ざし手を胸に当ててうつむいた。

 ラケルが代わって口を開いた。

 「わたしも、姉が冗談に申しましたことを除いては、姉と全く同意見でございます。あなたは父から不当な扱いを受けても、いつもぐち一つ言わず、その裁きをすべて神にゆだねられました。

 それだからこそ神は、あなたがかけ合わせられた家畜に、全部しま模様の子が産まれるという奇跡を起こされてまで、父がわたしたちから横取りをしたものを、再びあなたの手に戻るよう取り計らってくださったのだと思います。

 それゆえ、神があなたにお告げになったことは何事であれ、そのとおりになさいますように」

 ラケルが深々と頭を下げたのに合わせて、レアもうやうやしくヤコブを拝した。

 「これで決まった」

 ヤコブは喜色満面で手を打つと、その大脱出の日を、羊の毛を刈るためにラバン一家が最も忙しい時期の早朝5時と決めた。そして、天幕の中で彼らの財産として与えられたものや、たくさんの食物を、すぐにでもらくだの背中に積めるように荷づくりをした。

 慎重なヤコブは、秘密が漏れないように決行の前夜の10時に40人の牧童たちを集めて、目的は告げずにいつもより1時間早い4時にそれぞれの分担の家畜を連れ出して、5時にユフラテ川の河畔で落ち合うように指示を与えた*12

 ラケルはラケルで何を思ったのか、その前日の日中、ラバンが留守にしているすきをねらって、その天幕の中に忍び込み、父が一族の守護神として大切にしまっていた金の偶像──テラピムを盗み出し、それを自分の乗るらくだの鞍(くら)の下に隠した。

 さて、長年の苦労で鍛えられた細心さと大胆さが幸いして、ヤコブ一族はまんまと計画どおりに、早朝まだ暗いうちにすべての持ち物、家畜、従者を引き連れてユフラテ川を越え、故郷カナンの地を潤しているヨルダン川東のギレアデの山地をめざして、800キロに及ぶ砂漠を踏破する豪快な大脱走を開始した。

 一見、羊のようにおとなしく黙々と働き続けていたヤコブが、こんな大胆なことをやってのけるとは夢にも思わないラバンは、この突然の脱走に全く気づかなかった。

 それから3日もあとになって、羊の毛の刈り取りがすべてすみ、テラピムに感謝の供え物をささげようとその安置所を開けてみたところ、それが影も形もなくなっているのを見て愕然(がくぜん)とした。

 「一体だれが大切な神様を隠したのか」

 ラバンは激怒して一族、牧童を全部集めて一人一人調べあげてみたが、何の手掛りもない。盗む動機も思いつかない。じりじりしたあげく、ラバンの心にはっとひらめくものがあった。

 「ラケルのやつだ」

 ラケルは何度もラバンのもとにやって来て、「テラピムはただの金の像で、それを拝んでも何にもなりません。この全天地を創造されたまことの神ヤハウェを主として仰ぐのでなければ、やがて神の怒りにふれ、一族が滅ぼされるかもしれません」としつこく迫った。

 「あのずる賢いヤコブにかぶれて、こともあろうに親に説教し、先祖伝来の尊い神様を捨てさせようとするのかと、そのつどどなりつけて追い返したものだが……。あの気違い娘め、口で言うだけではらちがあかないと思って、自分の留守にどこかに隠してしまいやがったんだな。いくら娘だからといって、これだけは許せぬ」

 ラバンは直ちに従者を呼んで、「ラケルにすぐ来いと言え」と命じた。

 従者は真っ青になって駆け戻ってきた。

 「大変です。ヤコブの牧場も、天幕も、もぬけの殻です。野ねずみ一匹おりません」

 「何だと?」

 ラバンは舌打ちした。そういえば、ヤコブはかねがね妻子を連れて故郷に帰らせてくれと言っていた。妻子や牧童を養うのに十分過ぎるほどの家畜が手に入ったものだから、あとは野となれ山となれとばかり、長年恩を受けたわしにあいさつもせずに夜逃げをしおったのだな……。

 長男エゼルもそれを聞いてびっくりしたが、すぐにこう言った。

 「あのヤコブめ、利口そうでいて案外の間抜けですね。故郷のカナンに行く以外に逃げる所はないし、カナンへは隊商の通る道が一つあるだけです。しかも3000頭もの家畜を引き連れてでは人目につかないはずがない。速く移動できるはずもない。追撃しましょう。すぐに捕まえて、この泥棒めと脅かして、連れていった家畜をみんな取り戻してやりましょう。

 おとなしくしていればひとりでに自分のものになっただろうに、小ざかしい浅知恵で、自分の仕掛けたわなに自分が引っかかりましたな」

 エゼルは日ごろ味わわされ続けた劣等感をこの一時でひっくり返せるとばかり、むしろ喜々として、腕が鳴ってしようがないという様子であった。

 「いや油断はならんぞ。ヤコブのことだ、これは誘いなのかもしれぬ」

 ラバンは慎重にそう言ったが、ともかくも金のなる木に逃げられたとあっては追跡して彼らを捕まえ、詰問する以外どうしようもない。

 ラバンは直ちに一族の者を召集し、らくだを全速力で走らせた。会う人ごとにヤコブらしき一行を見かけなかったか確かめつつ、ようやく7日目に至って、ギレアデの山麓で、ほんの半日ほど前にヤコブの一隊がその道を通り過ぎたことを突き止めた。

 夜はもはやとっぷり暮れている。ヤコブは家畜の大群を抱え、こちらは身軽。明日の朝早く出発すれば、その日のうちに追いつくことができるだろうと考えたラバンは、ひとまずそこに天幕を張って一休みすることにした。

 その夜、ラバンは首を締めつけられるような異様な寝苦しさに襲われ、神がその夢枕に立って、おごそかにこう告げられるのを聞いた。

 「よくこれまで自分のしたことを省みよ。ヤコブを裁く資格があるかどうか*13。もしその資格がないのに裁こうとするなら、わたしもまたお前を少しの容赦もなく裁く。心してヤコブにものを言え」

 思いあたるふしが数々あるラバンは、良心の呵責(かしゃく)で、その額から油汗の流れるのを覚えた。


*注:
11)口語訳聖書では嗣業(しぎょう/創世記31・14)と訳されている。これは『広辞苑』にも載っていない聖書独特の用語であるが、元来はヘブライ語で「賜物」(天与のすぐれた土地の産物や人間の才能などのこと)を意味する語。ヘブル社会では不動産は家に属するものとされ、長子は他の兄弟より2倍の分け前を得る特権のある反面、家族の女性たちを扶養する義務がある。これがいわゆる「長子の特権」で、ヤコブとエサウはそれをめぐって争ったのである。(『新聖書大辞典』キリスト新聞社参照)
12)計画的にこの時期を選んで脱出を企てたという解釈は、ヴィンセシオ(『旧約聖書物語』創世記・族長編、広論社)にならった。
13)創世記31・24には「あなたは心してヤコブに、よしあしを言ってはなりません」と神が戒められたとある。この「よしあしを言うな」と言われた言葉の含意をもう少し劇的にとらえ直して、ラバンにヤコブを裁く資格があるかという表現に変えたもの。

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 次回は、「契約の石塚」をお届けします。