信仰と「哲学」5
「哲学」の始まり~神を信じたくて泣いた友人

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 大学の学部は人文学部で哲学科を専攻しました。手当たり次第に哲学関係の本を読みました。といっても、共産主義の関係がほとんどです。特に『空想から科学へ』(エンゲルス)などから始めて、『資本論』(マルクス)まで挑戦しました。さらにマルクスに匹敵する理論家と評価されたルカーチ・ジェルジの『歴史と階級意識』などにも食らいつきました。正直、まともに理解できませんでした。とにかく読破して「誇り」たかったのです。ゆがんだ動機でした。

 また、当時流行だったジャン=ポール・サルトルの『存在と無』や『実存主義とは何か』などを読みあさり、にわかに覚えた「言い回し」で論争するのです。地に足がつかない空回りの日々、充実感など全くない日々が続きました。

 そんなある日、友人E君と彼の下宿で酒を飲みながら、神について、キリスト教について、聖書について語り合いました。というよりは「論争」です。無神論者と有神論者の闘いです。彼はクリスチャンだったのです。

 でも結局は私の勝ちです。殺し文句があるのです。神を信じることはできない。もし神が存在するなら、なぜこのような悲惨な世界、うそと偽善、残酷な世界を放置しておくのか、と繰り返せばいいのです。いろいろな議論はあってもその一点で追いつめることができたのです。

 E君は泣きながら、「神様を信じたい。存在してほしい。しかしその一点でどうしても完全に信じることができない」、そう下を向いて繰り返しつぶやいて泣いたのです。その後、そして今もですが、本当に悪いことをしたな、と思うのです。

 でもその頃の私はこう考えていました。
 人間が神を信じるのは、自分が救われたいため。結局は自分、自己中心に過ぎない。全てが「ご利益」であって、他人や社会のためではない。本当の人間はそのような生き方をしてはならないと・・・・・・。

 マルクスの言葉=「宗教は阿片(アヘン)である」や、マルクスの先輩フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で主張した「人間が神をつくったのであり、神が人間を造ったのではない」などの言葉が、後押ししたのです。(続く)